2016年11月20日礼拝説教 「いとおしむ神」

2016年11月20日

聖書=ヨナ書4章1-11節

いとおしむ神

 

 ヨナ書の主題は異邦人にも注がれている神の愛です。旧約の基本は、イスラエルの民を選んで愛する神の愛です。その中で異邦人にも注がれる神の愛を主題とするヨナ書は珍しいと言っていい。しかし、これが聖書本来のメッセージです。イスラエルを愛する神は、同時に異邦人をも深く愛する神です。ヨナは、この異邦人を愛する神の愛が理解できなかった。神の愛が率直に受け入れられないのです。

 

 ヨナは、ニネベの町の人たちの悔い改めと救いを喜ばず、神が恵みと憐れみの神であることに腹を立てている。「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と。神にぶっつけた怒りの言葉に、神がどう対応するかを見極めようとして小屋を建て、そこに座り込み、神がどうなさるかを見極めようとした。40日たってもニネベの町には何の変化も起こらない。神の言葉の真実はどうなるのかと、「座り込み」を始めた。小屋と言っても木の枝や葉でおおっただけの仮小屋です。陽射しはきつい。ヨナの頭の上に太陽はギラギラと照り返している。

 

 神は、このヨナを憐れんで「彼の苦痛を救うため」に、「とうごまの木」を生えさせた。どんな類いの木か分からないが成長の速い木のようです。「とうごまの木」の出現は、ヨナにとって大きな喜びでした。またたくまに大きくなって「ヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消えた」。ヨナの不機嫌の理由はたまらない暑さにあったかもしれない。人間は不快になると怒りやすくなる。青々と木が茂り、日陰が出来、風も吹いてくる。過ごしやすくなると、ヨナも怒ることを忘れてホッとした。「喜び、喜んだ」。彼は「とうごまの木」をいとおしく思った。かわいく大切に思い、愛惜する。とうごまの木をいとおしんだのです。

 

 ところが、ヨナの快適な喜びは突然打切りになった。一晩のうちに「とうごまの木」が虫に食い荒されて枯れてしまった。いつものように太陽が昇りギラギラと陽が射し、砂漠の方から強烈な熱風が吹き付けてくる。ヨナは再び極度の不快と怒りの状態に戻ります。「ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。『生きているより、死ぬ方がましだ』」と叫ぶ。

 

 ヨナは「死んだ方がましだ」と3回繰り返している。ヨナの激情的な性質を表す言葉です。「死にたい」と繰り返していることは重要な意味を持っている。神のなさること、なさりようの不可解さへの叫びなのです。神は何をしようとしているんだ。神はヨナに「とうごまの木」を与えてくれた。それによって慰められ喜びを覚えた。ところが一晩のうちにヨナから「とうごまの木」を奪ってしまった。一体、神は何をしようとしているのか。喜びを与えようとしているのか、絶望を与えようとしているのか。神のすることが分裂している、とヨナには思えた。

 

 ここで、神はヨナにことの真実を明らかにされた。神は言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。ここに、ヨナの問いに対する神の真剣な答えが語られている。ヨナをニネベに遣わした神のみ心、悔い改めたニネベの町を滅ぼさなかった神のみ心、「とうごまの木」を贈ってヨナに分からせようとした神のみ心が語られている。

 

 「惜しむ」が鍵語です。「惜しむ」、ヘブライ語で「フース」という言葉がヨナ書全体を解明してくれる鍵言葉です。この語は日本語「惜しむ」の意味だけでなく、「憐れむ」、「未練を残す」という意味をも含む広がりがある。「惜しむ」が「憐れむ」と訳される個所はエゼキエル書20章17節「それでも、わたしの目は彼らを憐れんで、彼らを滅ぼさなかった」。「未練を残す」と訳されるのは創世記45章20節「家財道具などには未練を残さないように」。これらの訳語から「惜しむ」と訳された語は「一つのものに執着し、愛情を覚えて、我が身のようにいとおしむ心」と言ってよい。

 

 神は「とうごまの木」を通して、ヨナにこの思い「一つのものに執着し、愛情を覚えて、いとおしむ心」を悟らせようとした。ヨナが「惜しんだ」とうごまの木は「自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ」たものです。しかし、この「とうごまの木」をいとおしみ、これによって慰めを与えられ、喜びを味わった。青々と木が茂り、日陰が出来、涼しい風も吹いてくる。「とうごまの木」を大事に思い、数日でもいつくしんだ。まさに「惜しんだ」のです。狂い死にしたいほどに惜しんだ。

 

 神はご自分も「大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と言う。ニネベには12万人以上の人がいる。神が愛情をもって神の形として創造した人間です。神に向かい合う人格として造った存在です。人は本質的に神の人格的な愛の対象なのです。ニネベの人々は罪を犯し滅びる以外なくなってしまっている。しかし、神はなお罪人となった人々を愛しておられる。言い方はおかしいが、神が狂い死にしたいほどに惜しんでおられるのです。正しい道を弁えないで滅んでいく人たちも、神を知って悔い改めるならば神は滅ぼさないと言われます。神は神の形に造った人間に執着し、愛情を注ぎ、いとおしんでおられるのです。

 

 ここに、ヨナが問い続けた神の真実が明らかに示されている。神の言葉の真実は、神の言葉が形式的に成就したかどうかではない。神の言葉の真実は、罪人を愛して救う真実なのです。矛盾のように見える神の働きの中に首尾一貫しているのは罪人を愛して救う神の真実なのです。「未練」とも訳し得る神のみ心が、キリストの十字架において成就したのです。「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ書10:12,13)