2016年11月13日
聖書=ヨナ書4章1-5節
神に怒る預言者
ヨナは長い髭を震わせ、髮の毛は「怒髪、天を突く」、唇を震わせて怒っている。自分を預言者として立てた神に対する怒りです。「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」。「このことは」とは、ニネベの町の人々が悔い改めたことを神が御覧になって「宣告した災いをくだすのをやめられた」ことです。40日経ってもニネベの町に変化がない。ヨナは神に命じられた言葉を語った。大きなニネベの町を何度も回り歩いて、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と徹底して語った結果、「身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」。大いなる悔い改めが起こった。
伝道は成功したが、ヨナは喜ばなかった。神がニネベを滅ぼさないことが分かったとき、ヨナは激怒した。不機嫌さを隠そうとしない。神に向かって怒りをぶっつけた。ヨナは神の憐れみに対して怒った。神の優しさ、寛容さが許せなかった。「あれほど罪深い人たちです。どうして赦されるのか。信じられない。不公平です」と。第1は、この神の愛の問題です。よく考えると、ヨナは神が思い返されたことによって何の損害も被るわけではない。「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という預言が外れて、預言者としての面目を失うかもしれない。しかし、本当の問題は、神がニネベの町の人々に対して寛容でやさしすぎるということなのです。
神が自分の側にではなく、ニネベの側に立っているように思えたからです。自分と同じ気持ちになって、ニネベを憎みニネベを滅ぼす神であれば、ヨナは平安を得られた。神がいつも自分と共におられ、自分の味方であると感じられると幸いです。ところが神は、ニネベに対する裁きを思い直され、ニネベに対して赦しと寛容を示された。この神の寛容さが、ヨナにとっては自分が無視されたかのような疎外感をもたらしたのです。
神は一方的にニネベの側に立っていたわけではありません。我がままなヨナをも受け止め、神はヨナに対しても愛と寛容をもって接してこられた。しかし、ヨナはそんなことを思う余裕を失っていた。神はニネベを愛して自分を見捨てたという思いで一杯です。自分は見捨てられたという不信感です。裏を返せば、どこまでも自分を愛してほしいという人間の欲求です。人には愛されたい、受け入れられたいという基本的な願いがある。愛されていない、受け入れられていないと思うと怒りに変わるのです。
ヨナは自分に注がれる神の愛が十分に分からなかった。預言者として働いていても神の愛が分からなかった。そのためニネベの人たちへの神の憐れみが示された時、妬みの思いが神への怒りへと変わった。ニネベの人に対して憐れみ深く、怒るに遅く、恵み豊かな神であることを知った。しかし、自分に対しても同じ愛が注がれていることが分からなかった。だから神に対して怒るのです。自分に注がれている神の愛、罪を犯し挫折してきた自分に注がれている神の愛を受け止めることが信仰なのです。単に「神は愛なり」という知識としての神の愛ではなく、自分のためにキリストが十字架に架かってくださり、贖いをしてくださったという自分に注がれている神の愛をしっかりと受け止めることが信仰なのです。
もう1つの問題は神の真実の問題です。ヨナは命じられた通り「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と伝えた。無条件でニネベの町の滅亡を宣告した。ヨナは自分の宣教は神の正義の発言であると信じた。ところが預言が実現しない。自分の語ったことが神の正義を示す機会とならなかった。そこで神に向かって叫ぶ。神を責め神を弾劾する。その中で、自分がタルシシュに向かって逃げたことを正当化しています。「わたしは、このようなことを予測していたのだ。律法にも神は憐れみ深く、怒ること遅い神であり、悔い改める者に慈しみを与えることが記されているではないか。だから、わたしはタルシシュに向かって逃げたのです」と言う。
神の強引な再召命でニネベに行って宣教した。その結果、またしても神は約束した裁きを実行せずにヨナは裏切られた。預言者の誇りは自分が語ったことが実現することです。預言が実現しないのは偽預言者となる。預言者としての自分の立つ根拠を失うことでもある。立つ瀬がない。召命の言葉を聞いて従い、神の言葉を語ったにもかかわらず偽預言者となることはたえがたい。神の言葉の真実はどうなるのだ、と問い詰めている。それは神が首尾一貫しないからだ。一度、滅ぼすと決めておきながら、それを変更することは神の正義と真実とを曲げてしまうことだ、とヨナは神を弾劾する。逃亡した者を呼び戻して神の言葉を語らせながら、その神の言葉が貫かれないとしたら立つ瀬がないのです。
神の答えは「お前は怒るが、それは正しいことか」です。これは、ヨナに対しての答えとなっていない。ヨナははぐらかされたように感じる。神はこの問答を打ち切られたのです。実は神は首尾一貫しておられる。神は罪人を愛してくださることにおいて首尾一貫しているのです。「あと40日すれば、ニネベは滅びる」という言葉は、本来、福音の言葉です。「だから、悔い改めて神を信ぜよ」というメッセージなのです。神はヨナを用いてニネベの人たちを悔い改めに招いておられた。そして、ニネベの人たちは悔い改めて救われた。神は悔い改める者を限りなく赦される神です。預言者の立つ瀬があるかどうかではない。神は罪人を愛してくださるお方であり、その愛の真実がここに貫かれているのです。
ヨナは、神にぶっつけた怒りの言葉に、神がどう対応するかを見極めようとして小屋を建て、そこに座り込んで、神がどうするかを見極めようとします。神の言葉の真実はどうなるのか。ヨナは食い下がっていきます。神の前に座り込みを始めた。小屋と言っても、木の枝や葉っぱでおおっただけの仮小屋です。陽射しはきつい。毎日、座り込んでいるヨナの上に太陽はギラギラと照り返している。神は、このように神の御心が分からずに怒り狂うヨナを通して、神の愛の真実を示そうとしておられるのです。