2016年11月6日礼拝説教 「思い直される神」

2016年11月6日

聖書=ヨナ書3章1-10節

思い直される神

 

 今日の説教は「思い直す」、この1語に絞られる。「思い直す」は、ヘブライ語「ナーハム」で「悔いる、ひっくり返す」とも訳せ、神の意志の変更です。ヨナ書では、神の御心が二通りの仕方で示されている。1つは、ヨナを愛し選んで見捨てず預言者として用いる神の徹底した変わらない意志です。ここに神の選びと予定の意志を見ることが出来る。もう1つが「思い直す」という神の意志の変更とも言えることです。極端なカルヴィニズムの信奉者は、神の主権と予定を強調して「神の意志の変更はありえない」と言うが、「ナーハム」(変える、悔いる、ひっくり返す)が繰り返し用いられている。教義的な独断で聖書の言葉を葬り去ってはならない。

 

 ヨナのニネベでの伝道とその結果が記されているのが3章です。ヨナは主が「このように語れ」と命じられたことを明確に語った。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと40日すれば、ニネベの都は滅びる』」。ヨナが何日間、あるいは町を何周してみ言葉を語り歩いたのかは分からない。「一日分の距離を歩きながら叫んだ」だけですが、大きな都ですから一日で済んでしまったわけはない。一回りするのに三日かかったと言われています。ある意味で、ヨナは愚直とも言える人です。彼は熱心に真実に叫んだ。何日もかけて、何周もして繰り返し語った。ヨナの宣教の熱心と真実とを疑う必要は全くありません。

 

 問題はその後です。ヨナは、熱心に伝道した後どうしたか。ある旧約学者は、この3章の4節と5節の間に、4章5節の言葉を入れて読む。「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」。これは自然な読み方だと思う。ヨナは熱心に真実にみ言葉を伝えた後、自分の語った結果を見ようとしている。都を出て郊外の小高い山の方に小屋を建て「どうなるか」と見届けようとした。ニネベの町の人々は、どう対応するか。何よりも、神がどう対応してくださるかを見極めようとした。

 

 ヨナのメッセージはニネベの町に大きな衝撃をもって迎えられた。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼び掛け、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」。ヨナの伝道は結果となって表れた。町の人々、上から下までが悔い改めを表明した。明確な悔い改めです。「滅びる」という恐れから、とるべき姿勢を素早く整えた。「身分の高い者も低い者も」悔い改めのしるしである粗布を身にまといます。王は大臣たちと一緒に悔い改めの布告を出す。「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免がれるかもしれない」。半端ではない、徹底的な悔い改めがなされたと記している。

 

 ニネベの徹底的な悔い改めの表明がなされたことは、だれに対しての記述なのか。悔い改め自体は神が受け止めている。ニネベの町の悔い改めを受け止めて、御心を思い返してくださったのは神です。しかし、ニネベの町の徹底的な悔い改めがなされたことの記述を読むのは誰か。ヨナ書が記されたのは、神の民イスラエルのためです。ニネベの人たちの徹底的な悔い改めと比較されるのはイスラエルの民の反抗の姿なのです。ニネベの民とイスラエルの民との神の言葉に対する態度が比較されている。異教の民の悔い改めに対して、イスラエルの民の反抗の姿が比較されている。

 

 ヨナがニネベで活動した頃、イスラエルにはアモスが預言者として送られていた。アモスもヨナと同じように真実に熱心に神の言葉を語り、イスラエルの人々に悔い改めを迫った。ところがイスラエルの人々はアモスの言葉に耳を傾けようとはしません。馬耳東風です。繁栄におごり偶像礼拝にうつつを抜かしている。神の言葉への真実が失われていた。これが神の民と言われてきたイスラエルの姿です。「神の言葉に聞き従う民は、いったいどっちなのだ」と。これがヨナ書の著者が指摘していることです。

 

 「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」。ヨナによって告げられたことは「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」です。「もし悔い改めたら」とか「神に立ち帰るならば」、「救われるだろう」というような条件は含まれていません。「40日後の滅び」が宣告されただけです。しかし、ニネベの町の人々の悔い改めは本物でした。主なる神は、この本物の悔い改めを御覧になられたのです。そして「思い直された」のです。神がきまぐれに決意を変えるということではありません。「思い直す」とは、悲しむ、悔いる、憐れむという意味をも含む言葉です。神が主権的に彼らを憐れんで処置を変更されたということです。

 

 ある人たちは、神が「思い返す」とか「悔いる」という言葉は問題のある文章だと言います。しかし、そのような硬直的な考え方がおかしいと思っています。旧約の中には、神のみ心の変更と認められる箇所は幾らもあるのです。預言者エレミヤも「もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(エレミヤ書18:8-10)と語っています。一度、神が「断罪した」ことを「思いとどまり」、「思い直す」と言われている。教理によって聖書の御言葉を、これはおかしいなどと言うことは本末転倒です。

 

 神は悔い改める者の涙と真実とを御覧になって、憐れみを与える神です。神はすべての人の真実な悔い改めを望んでおられます。パウロは「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と記します。これこそ変わらない罪人を救う神のご意志です。神はニネベの人々の本物の悔い改めを御覧になって、罪人を憐れむ救いのご意志を貫かれた。悪人を裁いて滅ぼすことを喜ぶ神ではなく、罪人が悔い改めて神に立ち帰ることを喜ばれる神です。この町で生きる私たちに、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけておられます。