2016年10月16日
聖書=ヨナ書1章7-16節
追跡する神
ヨナは今、神から逃げています。アダムと女とが「神の顔を避けて」園の木の間に身を隠したように、ヨナも神の顔を避けて身を隠している。改革派の教理に「聖徒の堅忍」があります。「聖徒の堅持」とも訳す。「堅忍」は英語で「perseverance」です。忍耐、辛抱の意です。これは信徒が忍耐し辛抱して救いを全うするという意味ではない。逆です。人の不信仰や背信を、神が忍耐し辛抱し救いを完遂して下さるという信仰の教理です。
私たちもヨナのように神から逃げ出す時もある。神を信じてきた。しかし、神は必ずしも自分の思い通りに自分を取り扱ってくれない。悲しくなる取り扱いもある。つらい使命を担わねばならない時もある。何故、こんな目に遭わなければならないのかと、神を恨むことも起こる。そんな時、私たちも神から逃げ出す。こういう経験を、私たち持つのではないか。神は逃げ出したヨナを追い求めます。ヨナが忍耐し、辛抱するのではない。神が忍耐し、辛抱し、ヨナの救いと使命とを成就してくださいます。ここにあるのは神のperseverance、神の忍耐と辛抱の物語です。神は逃げるヨナを見捨てない。神を捨てて逃避行するヨナを追い求める神の物語です。
詩編119編71節、口語訳で「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」と記されている。苦しみは辛いことですが、神が人の人生に介入してくださる時です。神の愛による介入です。このままヨナがタルシシュに逃げ込んでしまったらどうか。破滅です。神を信じる者としての歩みも、預言者としての歩みもすべてが空しくなってしまう。神はヨナをもう一度信仰へと呼び覚まそうとしている。預言者としての生涯を歩ませようとしておられます。私たちが苦しみに出会う時、それは私たちを信仰の基本に立ち戻らせるための神の恵み深い配慮、神の介入の時です。苦難に遭う時、その意味をよく考えてみなければなりません。
ヨナの乗った船は嵐に巻き込まれた。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めます。無線も何も無い時代ですから、万策尽きた時には祈る以外ない。積み荷を投げ捨てて少しでも身軽になるようにして、後は異教徒なりにそれぞれの神に祈る。乗組員たちは嵐に一所懸命対処しようとしている。船長がヨナのところに来て「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神に助けを求めろ」と言います。そして、船乗りと乗り合わせた人々はくじを作って、「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難が降りかかったのか、はっきりさせよう」と言います。異教徒なりに、この異様な嵐が神の怒りであり、乗船者の誰かに責任があると考えた。くじはヨナに当たりました。すると船乗りたちは口々に問い質す。「あなたは誰で、何のために、どこへ行くのか。国はどこか」と。
ヨナも答えなければなりません。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と答えた。天地を造られた神から逃れてタルシシュに行こうとしていることも語った。船乗りたちは「何ということをしたのだ」と言う。そうしている間にも、嵐はますます激しくなる。一刻の猶予も出来ない。船乗りたちは「どうしたら、海が鎮まるだろうか」と、この大嵐の原因であるヨナに尋ねます。この船乗りたちの問いかけは、神の問いかけでもあった。異教徒の船乗りの口を通して、神が問うている。「あなたはどうするか」と。道は2つに1つです。1つは船乗りも乗客も巻き込んで船もろともに海の藻屑となる道、それともここで素直に悔い改めて神に従う道です。神は、乗客や乗組員たちの命を求めているのではない。ヨナが真剣に悔い改めたら一切は解決するのです。
しかし、ヨナはそのどちらの道も選び採ろうとはしなかった。他の人々に迷惑をかけることは出来ない。何とか助けねばならない。と言って、神のみ前にへりくだって悔い改めるのは嫌だ。ニネベになんか行くものか。そこでヨナは第3の道を選び採った。悔い改めないけれど、人にも迷惑をかけないという道です。ヨナは考え抜いて言う。「わたしの手足を捕らえて海に放り込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている」。悔い改めてニネベに行くより死んだ方がましだ。死を選んだと言っていい。
けれど、異教徒の船乗りたちは立派です。ヨナをすぐに見捨てなかった。船を近くの陸に戻そうと懸命の努力を続けた。ヨナを助けようとしている。ところが「海はますます荒れて、襲い掛かって」来る。神がヨナを追跡しているからです。もう船は沈没する。そこで船乗りたちはあらゆる努力を払った後、彼の言葉通りにします。異教徒なりの祈りをした後、ヨナをドボンと海に投げ込んだ。すると、今まで荒れ狂っていた海は静まった。このことを通して乗り組んだ人々は、ヨナを追い求める神・ヤハウェが、この大風を起こしておられることを知ったのです。ヤハウェこそ、天と地の造り主であること、海と陸を造られた主なる神の力を知ったのです。
その後、ヨナはどうなったか。ヨナは悔い改めないまま海に投げ込まれて、「巨大な魚に呑み込まれ」ました。ヨナは神のみ手の中に落ちることになったのです。ヨナは他人に迷惑がかかることだけは避けようとした。しかし、神に立ち帰ろうとはしなかった。敵国であるニネベには行かないという自己主張を貫こうとしている。なお、彼は信仰は回復していません。しかし、そこに神のみ手が働くのです。巨大な魚を備えて、ヨナを呑み込ませたのです。神は、一度預言者として選び出し、召してくださったヨナに執ようにかかわります。神の顔を逃れ、神を捨てたヨナであるならば、神もヨナを見捨ててもいいのではないかと思う。ところが、神の取り扱い方は全く違う。神が忍耐するのです。一度、神が決断されたら、神は徹底的にヨナにかかわり、彼を信仰に引き戻し、使命に生きる者として下さるのです。途中、どんなことが起こっても、神はヨナを立ち直らせるのです。ここに一人の信仰者を生かして下さる主権的な神の恵みがあります。