2016年10月2日礼拝説教 「逃亡する預言者」

2016年10月2日

聖書=ヨナ書1章3-6節

逃亡する預言者

 

 「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ』」。この主の召しの言葉が臨んだ時、ヨナはどうしたか。逃亡です。彼は決して偽預言者ではありません。主の言葉が臨んだ確かな預言者です。しかし、主の召しの言葉を聞くと、即座に逃げ出した。

 

 ヨナは、どこから逃げ出したのか。彼はサマリアにいたでしょうから、そこから逃げ出した。しかし、サマリアから逃げただけのことではない。「主から逃れようとして」という言葉は、新改訳「主の御顔を避けて」と訳している。「主の御顔を避ける」、これが逃亡です。創世記3章8節に、罪を犯した「アダムと女が、主なる神の顔を避けて」と同じ言葉です。神の「御顔を避けた」。主のみ顔を避けて逃れていく。彼は主ヤハウェの預言者であることを捨てた。主の言葉に従わないで自己主張を貫こうとした。ヨナのニネベ行きの拒否を、愛国のため、憂国のためと、言い繕うことが出来るし、彼自身もそう納得させたのではないか。しかし、どんなに言い繕うとも、彼の行動は神からの逃亡で、アダムと同じ神への反逆行為です。

 

 預言者ともあろう人が神の言葉に接するやいなや、真逆の反応をしている。「ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」。彼は立ち上がったが、主に従うためにではなく、逃げるため、反抗するために立ち上がった。「タルシシュ」とはどこなのか。スペインの南の町タルテスースと呼ばれる所と言われている。実際は地中海を渡りきったスペインの南部地方一帯を指すようです。ジプラルタル海峡の北側の一帯と言っていい。「タルシシュ」とは、当時の地の果てを意味した。「ここは地の果て、アルジェリア」と歌われるような意味での当時の地の果てです。

 

 ヨナは、神が自分に何を求めているのか、よく分かっていた。だから、その務めから遠いところ、真反対の地に逃亡しようとした。そのため先ず、地中海沿いの古い港町ヤッファ(ヨッパ)に行った。折りよくタルシシュに行く船が見つかった。ヨナが神の顔を避けて地の果てタルシシュに逃れるために用いたものの1つは、莫大な船賃を払ったことです。ヨナにお金がなかったら、しぶしぶでも神の言うことを聞いたかもしれない。しかし、莫大な船賃を払うだけのお金を持っていた。お金が逃亡を助けたのです。2つは、大きな船の存在です。古代からフェニキア人の商船隊は有名です。船という人間の技術力も神からの逃亡を助けた。

 

 ヨナがしたことは「人々に紛れ込む」ことでした。皆と一緒にいれば怖くないという集団心理です。本来、預言者は孤独な存在で、皆が寝ているときに目覚めて神の言葉に聞くのが預言者の務めです。ところが神から逃れるため、お金と人間の技術力を使って群衆の中に紛れ込んで身を隠した。アダムとエバが「園の木の間に」身を隠したように、ヨナも群衆という木の間に紛れ込んで身を隠そうとした。今日の私たちと何も変わっていない。

 

 舞台は海上に移ります。船は地中海をタルシシュに向けて進んでいました。ところが、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」。ヨナの逃亡に、神は沈黙しているようですが、決してそうではない。「主は大風を投げた」。自然界の風を用いて、神は反抗するヨナに迫っていくのです。ヨナ書を通して自然を支配する主なる神を読み取らねばなりません。ヨナは神から逃亡しているようですが、所詮は天地の支配者である神の掌の中で右往左往しているに過ぎません。

 

 「船は今にも砕けんばかりとなった」。船乗りたちは必死な行動を起こします。「船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」。船乗りは2つの行動を取った。1つは、「それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ」ることでした。2つは、「積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」ことです。プロの船乗りとしての懸命な判断です。

 

 船乗りたちが必死で働いている時に、ヨナはどうしていたか。「ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた」。神経が太いと言っていいか。船乗りたちの必死の働きの傍らで「ぐっすりと寝込んでいた」。神から逃れて、もう安心と寝込んでいたのか。ヨナの眠りは何を意味しているのか。宗教改革者ルターはヨナ書の講解書を残しています。その中でルターは、ヨナの眠りを「死の眠り」と記します。人は、神が罪に対して直ちに罰しないことをもって、これは神が忘れているのだと思い込む。そして悔い改めることなく罪の中に沈んで一生を過ごしてしまう。これが「死の眠りだ」と語る。うまく神から逃れることができた。もう神は忘れている。そして悔い改めることなく、生涯罪の中に眠り込むのです。

 

 ところが、この「死の眠り」を船長が覚ましてくれることになります。船長はヨナのところに来て言います。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ」。「起きてあなたの神を呼べ」。これこそ、神の呼びかけの声でした。もう神から逃げ延びた。神は忘れている。そう思って図太く安心して死の眠りの中に入り込んでいた。ところが船長から揺り動かされて、「起きてあなたの神を呼べ」と言われたのです。

 

 船長の言葉は、勿論、主なる神ヤハウェを考えてのことではなかった。しかし、ヨナにとって「あなたの神」とは、言うまでもなく主なる神ヤハウェです。主なる神は船長を用いてヨナを呼び戻しているのです。「あなたの神を呼べ」。神は、神から逃亡する人物を、なお用いようとして呼び戻しておられるのです。神は徹底的にヨナを追い求めてくださいます。罪を犯したアダムとエバが、神の顔を避けて木の間に身を隠してもなお、神は「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださいました。人は、どこにいても、神を呼ぶこと、神に応えることが求められています。主なる神は、主の顔を背けて逃げ続けているヨナを必要として追い求めてくださっている。ここに、ヨナだけでなく、私たち人間の救いの道が見えてくるのです。