2016年9月25日礼拝説教 「主の言葉が臨んだ」

2016年9月25日

聖書=ヨナ書1章1-2節

主の言葉が臨んだ

 

 これからヨナ書を学びます。ヨナ書は小説のような作品になっている。巧みな構成、絶妙な語り口、思想的視野の広さ・深さ、批判の鋭さ、洞察の豊かさを持っています。また明確な神学的骨格を持っています。「カルヴィニズムの5ポイント」をご存知でしょうか。チューリップ(TULIP)と言われている。全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩寵、聖徒の堅持です。これらの幾つかのポイントを読み取ることが出来、内村鑑三は「ヨナ書は旧約聖書中の新約聖書だ」と語っています。

 

 ヨナは北イスラエル王国の宮廷で活躍していた実在の人物です。北イスラエル王国のヤロブアムⅡ世の時代(紀元前787年-774年)です。紀元前8世紀の終わり頃の人と言ってよいでしょう。

 

 「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」。口語訳「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った」。これが正確な訳です。主の言葉が一人の人格のように臨在して語った。この言葉にヨナ書の全体がかかっています。ヨナ書の主人公はヨナではない。主人公は「主の言葉」です。主の言葉、神の言葉の物語です。主の言葉が、どれほどの力を持っているのか。これから主の言葉の力に目を留めていきたい。主の言葉が臨んだ時、ヨナは全力で反抗する。神の言葉なんぞ屁とも思わない反抗をする。しかし、主の言葉がヨナの生涯を貫いていくのです。アブラハムの生涯も同じで、主の召しの言葉がアブラハムの生涯を貫いています。アブラハムは従順の中で召しの言葉が貫かれました。ヨナの場合は反抗の中で召しの言葉が貫かれるのです。ヨナの生涯の中で主の言葉、神の主権と召しが貫かれる物語です。

 

 主の召しの言葉がヨナに臨んだのは、彼の40歳後半か50歳頃でしょう。ヨナはすでに預言者として輝かしい実績があった。彼は北イスラエル王国の勝利と繁栄を預言した。ヤロブアムⅡ世は近隣諸国と戦って相次いで勝利し、ダビデ・ソロモン時代の領土を回復した。その結果、経済も急速な勢いで成長し爛熟の時を迎えた。ヨナは勝利の託宣をもたらした預言者、繁栄をもたらした愛国の預言者として人々の尊敬を受け、ヤロブアムⅡ世の宮廷で重んじられていました。

 

 このヨナに臨んだ主の言葉は「さあ、大いなる都ニネベに行って、これに呼びかけよ」でした。唐突に「主の言葉」がヨナに臨んだ。「さあ」とは「立て」です。ヨナはこの時まで繁栄の中に眠りこけていたと言っていい。預言者ではあったが繁栄に酔っていた。心地よい安逸の中で過ごしていた。その安逸を破る言葉が「立て」です。「立て、ニネベに行って叫べ」。

 

 神がヨナを預言者・伝道者として召したのは彼を必要としていたからです。今日、私たちがヨナ書を読むと「神様、何でヨナですか」と言いたくなる。彼の性質、その人となりを、どう考えるか。あなたが会社の人事担当の面接官でしたらヨナのような人物を採用しますか。中年過ぎて、小金を持っていて、成功経験があり、おごり高ぶっている。謙虚さなどどこにもない。自分の意にかなわないことはしたくない。上司にでも直ぐに怒鳴り、反抗する。人間的に欠け多き器です。しかし、神はこのヨナを預言者、伝道者として召した。神は不適当、不適任と思えるヨナを預言者、伝道者として召した。この後すぐに、ヨナの不適任さが逃亡という形で明らかになります。主の言葉、神の召しに対するあからさまな反抗です。どうして神はこのヨナを選んだのか。私たちには理由が分かりません。

 

 このヨナの選びと召しは神の無条件的な愛に基づく選びです。このことは今日の私たちも同じです。私たちもキリストによって無条件に選ばれて信仰者とされ、キリストのしもべとして召されています。よく考えると、私たちもずいぶん根性がひねくれている使いづらいしもべです。しかし、主は私たちを主の証人として召してくださいます。ヨナは特別な存在ではなく、私たちの一人と言っていい。ヨナの姿に自分の存在を重ねて聖書を読むことが求められているのです。神はあなたを必要としておられます。

 

 ニネベは「大いなる都」と言われる古代の大都市です。チグリス川の上流に位置しアッシリア帝国の首都です。このニネベの町の人々の罪、道徳的な腐敗が限界に達していた。アブラハム時代のソドム・ゴモラのような大きな罪に陥っていた。そのため、神はヨナを遣わして警告し、彼らを滅びから救おうとなさった。神はヨナを神のあわれみの器として選んで遣わそうとされた。このヨナの派遣の中に、異邦人に対する神の憐れみ、神の愛と慈しみが込められている。神を知らない人たち、神を神として信じない人であっても、神は彼らが滅びることを喜ばず、救いの道を講じてくださるのです。ヨナ書は異邦人を愛し、異邦人を救う神の愛の物語です。

 

 「敵を愛せよ」とは新約だけのメッセージではない。旧約の中に含まれている。個人的な敵であるなら、場合によって愛しもし、赦しもしよう。しかし国家的な敵は違うと考える。この時代、アッシリアは悪の帝国で、近隣諸国を侵略し略奪することによって国家を維持していた。こんな酷い国家であるアッシリアが神の祝福を受けてよいのだろうか、その支配力を回復してよいだろうか。自民族主義、自国さえよければ良いという考え方は非常に根深い。難民を受け入れない国、日本。ヨナ書を読み直してみる必要があると思う。神の視線の中には、いつも異邦人がいるのです。

 

 この後、逃亡が始まります。預言者が神の言葉に耳を貸さず、全力で逃亡する。考えられないことですが、神への徹底的な反抗を試みた。このヨナの反抗は成功したでしょうか。成功しなかった。ヨナの抵抗の中で、主の言葉が勝利するのです。ヨナのニネベ伝道は大成功をしますが、ヨナの働きの成功とは言えない。ヨナの勝利ではない。ヨナの伝道は恩寵の勝利なのです。神が忍耐し、選びと召しとを貫いてくださった。彼に臨んだ主の言葉の勝利なのです。ヨナを選び出し、ヨナを召してくださった神とその神の言葉が彼の全生涯を貫いているのです。神の言葉に力があります。