2016年9月11日礼拝説教 「あなたがたは証人となる」

2016年9月11日

聖書=ルカ福音書24章44-49節

あなたがたは証人となる

 

 この個所は、復活した主イエスが何回かにわたって弟子たちに現れてくださった何回目かの時の出来事として受け止めるのが自然な読み方でしょう。弟子たちは目で見てすぐに主の復活を信じたのではなかった。この不信仰な弟子たちに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」くださった。「心の目が開かれる」ことが集会の中で行われます。私たちが礼拝に集う理由がここにある。集会の中で、聖霊の働きによって目が開かれます。すると、今まで分からなかったことが分かってくる。

 

 主イエスは弟子たちに「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と教え、「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と言われた。「律法と預言者の書と詩編」とは、旧約聖書全体を指す言葉です。この旧約にあるキリストに関わる預言は必ず実現すると言われた。そして「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と言われた。この必ず実現するキリストに関わる預言が「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。

 

 旧約におけるメシア預言が明確に3点に要約されています。第1点は、「メシアは苦しみを受け」ることです。このことは主イエスの十字架によって成就・実現しました。イザヤ書53章が語る苦難のしもべの預言通りに、イエス・キリストは罪人のために十字架について贖いをしてくださいました。第2点は、苦しみを受けたお方が「三日目に死者の中から復活する」ことです。これこそ、弟子たちが今、目の前で見ている事実です。死を打ち破り、体をもってよみがえられた復活の主が目の前にいる。復活も実現した。心の目を開けていただくと、旧約聖書は救い主の十字架と復活を物語り、それが実現していることが分かってきます。

 

 問題は第3点です。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことです。これも「わたしについて書いてある事柄」メシア預言の中に含まれている。「罪の赦しを得させる悔い改め」とはキリストの福音です。福音が「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」こともメシア預言の1つです。世界伝道と言うと、主イエスからのご命令としてだけで理解しがちです。主イエスは福音が「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことは、旧約に約束されていることで、主の十字架と復活が実現したように、必ず実現することだと言われた。主イエスは旧約聖書をたいへん大きな視野の中で受け止めておられるのです。

 

 どこに、そんなことが書いてあるのかと文字に拘泥する考え方では、この主イエスのお言葉は分かりません。あの個所、この個所ということも出来るでしょうが、基本的には旧約全体の構造です。創造と堕落、堕落した人類の救済としてのキリストの出来事、キリストの再臨による救済の完成という聖書全体の構造を受け止める時に、世界への福音の宣教が救済の完成という道筋の中で受け止めることが出来るのです。主イエスは、メシアの受難と復活、そして世界への福音の宣教の実現を一続きのこととして語られています。このような全体的・構造的な旧約聖書理解が出来るようにと、弟子たちの心の目を開いてくださっているのです。

 

 今日、伝道が進展しないと心配してくださる方がおられます。小さな伝道所が閉鎖されたり、牧師のいない教会が増えている。どうしたらいいのかと頭を抱える。しかし、私はあまり心配しません。カトリック教会のある神父さんが書いた書物に「神は直線を描かない」という表題の本がある。人間は直線的にものを考えます。しかし、神は曲線を描く。出エジプト記13章17節に「神は彼らをペリシテ街道に導かれなかった」とある。出エジプトしたイスラエルの民が真直ぐにカナンに入ることのできる道がペリシテ街道で海に沿った直線の道です。しかし、神は反対方向のシナイ半島に導き、さらに荒れ野の40年という回り回った道へと導かれた。

 

 伝道は直線的ではありません。時に、神はまったく反対の方向に導かれます。後退しているように見えます。私は福音の宣べ伝え、伝道は必ず前進し、成就すると固く信じています。極めて楽観的です。目の前には多くの困難や失望するような現象もある。しかし、福音の宣べ伝えが実現することは、旧約時代から定められている神の計画、メシア預言に含められているからです。すでに十字架と復活は実現しています。もう1つの福音の世界への宣べ伝えも必ず実現していくものなのだということです。

 

 主イエスは言われます。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と。「これらのこと」とは、キリストの出来事です。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。これが福音の宣べ伝えです。「証人となる」、問題のある翻訳です。口語訳「あなたがたは証人である」、新改訳「証人です」。これから「なっていく」のではない。キリストの弟子であるとは、証人なのだということです。主イエスの十字架によって罪が赦されている恵み、主イエスの復活によって永遠の命が与えられ、神の子とされている恵みを、喜びをもって、証言することです。上手にうまく語ろうなどと考えない。ぼちぼちと、訥々と、自分に与えられている恵みの事実、キリストの赦しの福音を証しするのです。

 

 証しは決して言葉だけではない。生きる姿を通して証ししていくのです。生活を通した証しということで誤解が出てきます。立派な証しをしなければならないと思い込んでしまう。大きな誤解です。「罪の赦しを得させる悔い改め」の証しなのです。立派な生活をして後ろ指立てられないような証しではなく、失敗し、罪を犯し、本当に泣いて悔い改めて赦された恵みの証しなのです。失敗のない人、罪を犯したことのない人には出来ない証しです。罪を赦された者として生きる、これがキリストの証人なのです。