2016年8月28日礼拝説教 「目が開かれる」

                             2016年8月28日

聖書=ルカ福音書24章13-32節

目が開かれる

 

 主イエスが復活された日、二人の弟子がエルサレムからエマオへと旅をしていた。イエスに対する失望の旅であり、不信仰への旅路でした。そこへ一人の人が近づいてきて一緒に旅をしてくれた。その人について、ルカ福音書は「イエスご自身」であったと記している。復活の主がイエスに失望して郷里に帰る二人の旅を共に歩いてくださっているのです。

 

 彼らにはまだ主イエスのお姿は分かりません。同行する旅の人というだけです。なぜ、すぐにご自分の姿をお示しにならなかったのか。意地悪だなあと思う。それは今日の私たちのためです。今日の私たちも復活のイエスを目で見ることは出来ない。肉眼で見ることが出来ない私たちが復活のキリストをどうしたら信じることが出来るか、どうしたら「私はキリストを見た」と言うことが出来るか。それが、この個所の課題なのです。

 

 復活の主を信じる道筋の1つは、聖書を丁寧に解説していただくことです。御言葉の解き明かしです。二人の弟子に近づいてきたその人は「歩きながら、やり取りしているその話は何のことか」と尋ねた後、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」と教えられた。聖書の原則です。私たちが救い主、復活のイエスを信じるためには、聖書を解き明かしていただき、苦難を経て栄光に入るキリストという聖書の原則をしっかりと受け止めることです。

 

 次に大事なことは、求める熱意が必要です。彼らはエマオに近づきました。すると「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」。そこでこの方に「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って無理に引き止め、「イエスは共に泊まるため家に入られた」。このお方、イエスをそのまま行かせてしまったら、そこまでで終わった。聖書の知識を得たという程度で終わり、復活のキリストとの出会いの体験を得ることはなかったろう。しかし、聖書の解き明かしに「心が燃えてい」たから、「無理に引き止め」、強いてお泊めした。信仰は機会を捉えて熱心に求めることが必要です。真剣に願い求めるところで、聖霊が働き、心の目が開かれて、復活のイエスを見ることが出来るのです。

 

 このお方が、その家の食卓で「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ことで「二人の目が開かれた」のです。ある人は、これは聖餐式だと言う。しかし、この場面を聖餐そのものと理解することは出来ない。私は普通の家の普通の夕食として理解する。しかし、食卓で見知らぬ客が主(あるじ)をして、パンを裂き、一人ひとりに渡された時、彼らはそこに使徒たちから聞かされていた最後の晩餐の状景を見たのです。食卓の主をする主イエスの姿を見出した。また5つのパンを裂いて5千人を養われたイエスのお姿を見出した。主イエスは伝道旅行中、いつでもこのようにパンをとり、祈り、裂いて弟子たちにお渡しになっておられた。

 

 旅の中で、主イエスは食事の度毎に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。そのお姿をここに見た。彼らはこの食卓でのこの方の振る舞い、その仕草で、目が開かれ、懐かしい「イエスだと分かった」。十字架で死なれたはずのお方、葬られたはずのお方が、今、ここにおられる。彼らは生ける主、復活の主イエスと出会ったのです。

 

 主イエスは食事を共にすることを非常に大切にしておられました。福音書を読むと、主イエスの伝道にとって食事を共にすることが伝道の大きな手段でした。ペトロの家では何度も食事したようです。徴税人レビの家に招かれて食事した。ファリサイ派の会堂長の家に招かれて食事しました。そういう機会に、主イエスは食卓に集う人たちに御言葉を語り、伝道してこられた。ルカ福音書15章冒頭の言葉はイエスの食卓伝道をはっきりと伝えています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。食卓を共に囲むことは、主イエスの伝道の大きな手段の1つでした。

 

 日本の教会では、会堂の中で食事することを拒む教会が少なくない。新しく立派な会堂を建てると、汚されると困ると言って「飲食禁止」を言い出す教会が多い。私は不思議だなあと思っている。聖餐式は立派な飲食なのです。飲食禁止は伝道の手段を放棄することです。私が韓国の教会から学んだことの1つは、食事を共にすることの大切さです。韓国ではほとんどの教会で、毎週、礼拝が終わるとすぐに別の部屋の扉が開いて食事の支度が出来ています。親しい人たち同士、この日始めてきた人を囲んで、いろいろなグループで、食事が始まります。「ああ、一緒に食事をすることが、伝道と交わりの大切な機会になっているのだなあ」と感心しました。

 

 心が開かれ、個人的にもいろいろな悩みも話され、また兄弟姉妹から互いに励ましを受けて、帰っていくのです。もちろん、急ぐ人は礼拝が終わるとすぐに帰ります。少し時間に余裕のある人は残って食事を共にして交わりをしてから帰っていきます。このためにはたいへんな労力と献身的な奉仕が求められますが、食事を共にすることが教会の交わりと伝道の大切な機会、手段であることを受け止めてまいりたいと願っています。

 

 食卓の交わりの中で、二人の弟子は主イエスに目が開かれ、そこで御言葉の解き明かしが有効とされたのです。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」。私たちの教会は聖餐式を大切にしています。そこに活ける主を見ることが出来るからです。この聖餐式を頂点にして、教会は食卓の交わりを大切にしていきたい。主イエスは食卓の交わりに多くの徴税人や罪人と呼ばれる人も招かれた。食事によって互いの心が開かれていきます。私たちの教会の食卓に多くの人を招きたい。その食卓で聖書の解き明かしが有効とされ、活けるキリストに目が開かれていくのです。