2016年8月14日礼拝説教 「正義を洪水のように」

                            2016年8月14日

聖書=アモス書5章21-27節             

正義を洪水のように

 

 ノーベル文学賞を受けた大江健三郎は、あるエッセイの中で記している。「いま日本人には『義(righteousness)』のあるべき場所に空洞しかない。…日本の国家・社会において『義(righteousness)』が位置をしめるべきところが空洞になっており、そこを埋めようとする努力は一般的に希薄になっている」と。義理という義はあるが、英語でrighteousnessと言う義はカラッポだと言う。30年近く前に記された言葉ですが、的確な指摘で今も変わっていない。日本が過去に犯した戦争と侵略の過ちや罪を率直に認めない政治・社会状況を見る時に「義の空洞化」現象は明らかになっている。

 

 預言者アモスの生きた時代も、今日の日本と同じような状況でした。アモスは紀元前760年頃に北王国イスラエルで活躍した預言者です。この時代、北王国イスラエルはヤラブアム二世の支配のもと繁栄していた。そこでは貧富の格差が増大し、指導者層は腐敗していた。アベノミクスによる経済成長と同じです。経済的繁栄はすばらしいが、人の道徳的な規範を失わせていく。アモスは言います。

 

 「この言葉を聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ。弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる女たちよ。『酒を持ってきなさい。一緒に飲もう』と、夫に向かって言う者らよ。主なる神は、厳かに誓われる。見よ、お前たちにこのような日が来る。お前たちは肉鉤で引き上げられ、最後の者も釣鉤で引き上げられる」(4:1-2)。繁栄に酔うセレブたちに対する厳しい批判の言葉です。王や富める者は「象牙の寝台に横たわり/長いすに寝そべり/羊の群れから小羊を取り/牛舎から子牛を取って宴を開き、…大杯でぶどう酒を飲み/最高の香油を身に注ぐ」(6:4-6)。

 

 そして、繁栄の陰で社会正義がないがしろにされていることを指摘する。5章7節「裁きを苦よもぎに変え、正しいことを地に投げ捨てる者よ」。6章12節「お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた」。新共同訳より口語訳の方が適切な訳し方です。5章7節は「あなたがた、公道をにがよもぎに変え、正義を地に投げ捨てる者よ」、6章12節は「あなたがたは公道を毒に変じ、正義の実をにがよもぎに変じた」と訳した。新共同訳では意味が分からなくなった。口語訳で「正義」と「公道」と訳されていることこそ、アモスが求めていることです。

 

 「正義」とは単なる正しいことではない。神が神とされることが「義」なのです。「公道」とは、人の歩むべき正しい道であると共に、へブライ語では人の権利を意味する言葉です。人権と言っていい。経済的繁栄の陰で、最も大切な正義と公道が失われている。これこそ神の民として回復すべきものではないかと、アモスは訴えている。

 

 経済的繁栄のどこが悪い。生活が豊かになることは神の祝福ではないかとの反論が聞こえてくる。豊かになること自体はすばらしいこと、祝福と言える。しかし、そこに悪魔の罠(わな)が待ちかまえている。お金がすべて、豊かさがすべてという考え方が支配する。お金のためには何でもする。あくどいことでも、人を踏みつけても、何とも思わない。それができない人は無能とされる。皆がしていると言って、良心を麻痺させる。何が正しいことか、間違ったことかという基本的なことさえもお金のために流されてしまう時代に、私たちも生きているのです。

 

 アモスの批判は社会正義の領域だけでなく、当時の宗教にも向けられた。ヤラブアム二世の時代、実は神殿の祭儀、神殿の祭りも繁栄した。経済的な繁栄は宗教をも繁栄させる。この場合の宗教は繁栄と結びついた国家宗教です。国家を支える精神基盤となるような宗教が、いつの時代でも、どこの国でも盛んです。日本の場合は神道です。戦後、神道は経済の上昇と共に大きく復活した。2013年に行われた伊勢神宮の式年遷宮では年間1420万人が参拝した。人口の10%以上です。昭和天皇の死と葬儀、平成天皇の即位と大嘗祭などを通して、日本という国を支配している宗教的基盤として神道が力を示してきた。昔の祭りが復活し、マスメディアも疑うことなく取り上げ、観光名目で神社の祭りが紹介され人が押し寄せる。

 

 アモスは、国家宗教となった北イスラエルの神殿祭儀を激しく攻撃した。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。焼き尽くす献げ物をささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(5:21-24)。

 

 旧約の中で最も激しい宗教批判が語られている。「香りも喜ばない」、「献げ物を捧げても、受け入れない」、「肥えた動物を捧げても、顧みない」、「竪琴の音も聞かない」。神が鼻をつまみ、口を閉ざし、耳を塞いでいる姿です。神が五感をすべて閉ざして、全身で拒否している。

 

 アモスは、すべての領域で義と人権が貫かれることを訴えた。しかし、彼は単なる社会的行動を訴えたわけではない。アモス書の中心となるメッセージは5章4節です。「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ」。ここにアモスのメッセージのすべてが込められています。唯一の生けるまことの神を求めること、神に聞き、神により頼んで生きることです。聖書では神が義なのです。生けるまことの神が求められなければならない。神に立ち帰らなければならないのです。神が義であり、神に従うところに正義と公道が成り立つのです。

 

 キリスト者の使命は非常に大きい。福音の宣教は、人を救う・救霊と言うだけのことではない。福音の宣べ伝えは日本の国に神の義を伝える働きです。キリストを信じて生きることは、空洞でしかないカラッポなところに神の義を満たしていく奉仕なのです。義の感覚をはぐくみ、罪を罪として認め、人権に思いをし、神の義を伝えることは大切な奉仕なのです。