2016年8月7日礼拝説教 「一緒に歩く主イエス」

                  2016年8月7日

聖書=ルカ福音書24章13-27節

一緒に歩く主イエス

 

 主の復活の日の夕方、使徒を中心とした弟子たちはエルサレムの一軒の家に集まり、戸を堅く閉ざして震えていた。それと別の道を歩みだした弟子たちもいた。散り散りになった弟子たちの姿です。「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩き」だしていた。一人の名前は「クレオパ」です。72人の弟子たちで、十字架の出来事の直前まで従ってきた人ですが、主イエスが捕らえられた時に逃げ出してしまった。福音書の中に具体的な名前が残っていることは、福音書が書かれた時代、「ああ、あの人だ」と、皆が知っている場合です。ルカ福音書が記された紀元60年代、初代教会の中でクレオパは優れた伝道者として活躍していたと言っていい。後に教会の中で優れた伝道者になった人物が、ここでは今、伝道者として失格しようとしているのです。

 

 二人は仲間から逃げ出すようにエマオの村に向かっていた。郷里に帰ろうとしているこの旅路は失望の旅路です。エルサレムの群れから離れようとして、暗い顔でトボトボと道を歩む彼らの姿は私たちの姿でもある。私たちも教会を去ろうとする時があるのではないか。表向きには牧師と合わない、信徒の中に面白くない人がいる、といろいろ理由をつけるが、本当はキリストが分からなくなっているのです。キリストを見失っている。キリストの恵みが本当に分かったら、教会を離れることは起こらない。

 

 「二人の弟子が」と記されている。彼らは今、不信仰に陥っている。しかしなお、イエスの弟子なのです。群れから離れつつあるが、話し合い論じ合っているのはイエスのことです。群れから離れようとしている彼らの思いの中に、なお主イエスがいる。ですから彼らの信仰の危機に際して、主イエスご自身が近づいて一緒に歩いてくださるのです。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」。福音書記者ルカが特別な思いを込めて記した文章です。不信仰になり群れから離れつつある弟子たちに、主イエスご自身が近づいて一緒に歩いている。彼らはこのお方がイエスだとは分からない。けれど、主イエスが一緒に歩いてくださる。ここから回復の道、救いの道が始まっているのだと、ルカは示したいのです。

 

 彼らの不信仰の原因はなんだったのか。一緒に歩き始めたお方が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねます。質問は問題点を明らかにする。なぜ、イエスに失望してエマオに帰らざるを得なかったのか。不信仰の原因が明らかになる。彼らは「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と語る。

 

 彼らはイエスを「力のある預言者」としか見ていない。預言者は力ある人でも人間に過ぎない。さらに彼らがイエスに期待していたのは「イスラエルを解放してくださる」ことだった。この解放とは罪からの解放、罪の赦しではなく、民族の解放です。彼らが期待していたのは力ある預言者、大指導者として民族をローマから解放してくれる政治的解放者だった。ここからはイエスの復活などは考えられない。彼らはイエス復活のニュースを全く知らなかったわけではない。同伴する方に、「婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」と語っている。イエス復活のニュースは伝えられていた。しかし、信じられなかった。

 

 主イエスはこの不信仰な弟子たちを見捨てられません。旅の同伴者となった主イエスは言われます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と。「心が鈍く」とは「遅い」という意味の言葉です。理解するのに遅い、分かりが鈍いことです。聖書を読む、信仰を理解することで鈍さが出る。この世的には頭の良い人でも、聖書を読む時には鈍くなる。信仰の理解は頭の善し悪しとは別です。

 

 復活の主イエスは、彼らに徹底的に聖書を解き明かされます。もっと手早く彼らの目を開けたらいいだろうにと思う。しかし、彼ら二人だけの問題ではない。イエスが天に挙げられた後の時代の人たちは聖書からキリストを知るのです。聖書からキリストを読み取っていくのです。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。聖書はメシア・キリストを物語る証しの書です。しかし、ユダヤ教の語るメシアは栄光のメシアでした。モーセのような、ダビデのような栄光の解放者の姿です。ところが主イエスが示した聖書が証しするメシア・キリストの道は、苦しみを受けて後に栄光に入るというメシア、苦難を経て栄光を受けるメシアです。これが聖書の原則です。

 

 苦しむことなしには救いはないということです。エジプトでの苦しみなしに出エジプトの解放はありません。バビロンでの苦しみなくしてエルサレムの回復はあり得ません。イエス・キリストも僕としての苦しみを徹底的に味わうことなくしては栄光はないのです。主イエスは十字架において死の苦しみを受けられた故に復活の栄光を受けられた。この聖書を貫く原則が分かれば、復活とは十字架で死の苦しみを受けられた方の受けるべき栄光であることが分かるのです。彼らは聖書を解き明かされて、心が燃やされました。心が燃えるところで信仰への回復がなされるのです。

 

 エルサレムからエマオまで11㌔余と言われています。歩くと半日ほどかかる。その間、彼らは復活された主イエスから聖書の手ほどきを受けたのです。こんな素晴らしい旅路はありません。イエスに失望し、群れから離れる旅路を辿っていた。ところが、復活の主イエスが現れて一緒に歩いてくださり、聖書の言葉をていねいに徹底的に解き明かして、信仰の回復へと導いてくださった。私たちの信仰の回復の道もここにあるのです。