2016年7月3日礼拝説教 「主イエスの死」

                     2016年7月3日

聖書=ルカ福音書23章44-49節

主イエスの死

 

 主イエスの十字架の死が記されています。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた」。光が失われた理由は分かりません。神に造られた全地がこの時、イエスの死に際して喪に服したと言っていい。マタイとマルコの福音書は、この暗闇の中で主イエスが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と、叫ばれたことを記している。主イエスは罪人として、神に呪われ、裁かれ、神の見捨てを味わわれた。

 

 ルカ福音書はその後、「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」と記す。これは父なる神に対する信頼の言葉です。主イエスは神の怒りをしっかりと受け止められるだけでなく、むしろ裁きたもう神にご自身を委ねて息を引き取られた。父なる神を信頼して、父なる神の御手にご自身の霊と魂を委ねています。ここには父なる神への完全な信頼と服従が示されているのです。エデンの園で、アダムとエバが神への信頼と服従を貫くことに失敗し、罪人となった。しかし今、主イエスはすべての人間の代表として神への信頼と服従を貫いて、息を引き取られたのです。神への信頼と服従を全うされました。

 

 主イエスの最後の状況に付随して2つのことが記されています。1つが「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ことです。よく考えていただきたい。神殿の垂れ幕が裂けた出来事は、十字架処刑の行われたゴルゴダの丘とはだいぶ離れたエルサレム神殿の最も内奥で起こったことです。神殿の垂れ幕が裂けたことを、誰が目撃し、誰がキリスト教側に語ったのか。「丁度その時刻に、神殿の幕が裂けた」ことは、大祭司、祭司長たち少数の人たちの中で内々に処理され、口外されなかったでしょう。しかし、やがて明るみに出された。使徒言行録6章7節に「祭司も大勢この信仰に入った」と記されている。この人たちから、イエスが十字架に付けられた丁度その時刻に神殿の内奥で起こったことが、キリスト教会の側に知らされたのではないか。福音書記者たちは、これこそ主イエスの十字架の出来事の結果であり、主イエスの死の意味だと理解し、ここに書き加えているのです。

 

 「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所とを分ける垂れ幕のことです。至聖所は神の臨在の場と言われ、普段、人は立ち入ることは出来ません。年に1度だけ贖いの日に、大祭司がイスラエルの民を代表して罪の贖いをするために小羊の犠牲の血を携えて入ることが許されていた。契約の箱の4隅に小羊の血を塗って贖いをした。それ以外の時は閉ざされていた。人間が神に至る道が閉ざされていることを示すのが垂れ幕です。罪ある人間は神と自由に親しく交わりをすることが出来ないことを表していた。

 

 その垂れ幕が真ん中から裂けたことは、閉ざされていた道が開かれたことです。神に至る道が大きく開かれた出来事です。贖いがなされ、救いが完成した。今まで長い間、神と人との間が隔てられ、年に1度だけ、大祭司だけが犠牲の血を携えてしか入ることが出来なかった。この神殿のシステムそのものが不要になった出来事です。主イエスが私たちの大祭司として、ご自身の血を流して死んでくださったことによって、罪の赦しを得させる贖いが完了したのです。それによって旧約の神殿システム、祭司制が終了し、廃棄された。新約の教会の中にいる者は、この恵みの事実をしっかりと受け止めなければならないのです。

 

 主イエスは「わたしは道である」と言われた。主イエスを通って、人は誰でも神に近づくことが出来る時代になった。神に至る道が開かれた。主イエスが私たちの大祭司として、ご自身の血をもって贖いをしてくださいました。この主イエスの贖いの死によって、私たちは恐れることなく、神のもとに近づくことができ、「アバ、父よ」と祈ることが出来るのです。

 

 次に、主イエスの十字架の死に立ち会った者たちの反応が記され、その中で最も顕著なのが百人隊長です。処刑の執行をする責任者です。この異邦人の百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美した。マタイとマルコの福音書では「本当に、この人は神の子だった」と言ったと記します。イエスが神の子であるとは、最高法院・サンヘドリン議会が全力を振るって否定しようとしたことです。イエスは民族を惑わし、皇帝に税を納めることを禁止し、自分をメシアだと語る暴徒、不義の人間だと主張した。ところが処刑の執行者である異邦人の百人隊長が、この人は正しい人であった、神の子であったと表明したのです。

 

 ユダヤ人にとって基本的には異邦人の救いは考えられません。旧約の枠の中でも異邦人が救いにあずかっていることはあります。しかし、それは例外です。けれども、この時から、このところから、異邦人の救いは例外ではない。イエスを神の子キリストと信じる者は誰であっても救われるのだということが明らかにされた。人種も、民族も、国籍も、階層も、性別も、すべての差別が取り除かれて、イエスを神の子キリストと信じる人は、救いの恵みにあずかるのです。その救いの恵みの最初に、主イエスを十字架に付けた異邦人の百人隊長を置いていると、見てよいでしょう。

 

 イエスを「十字架に付けよ」と叫んでいた群衆も皆、「これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っていった」と記されている。逆転が起こりつつある。変化が起こりつつある。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた時から、新しい時代が始まっている。ユダヤ人、異邦人という隔ての中垣もなくなり、十字架の贖いによって神と自由に交わりをすることの出来る新しい時代が来たのです。はっきり示されていることは、神殿や祭司制を支えてきたユダヤ人の時代が終わり、新しい異邦人の時代が来ているのです。聖書は私たち一人ひとりに呼びかけています。あなたはこの十字架で息を引き取られたイエスをだれと言うか、と。百人隊長と同じように、「イエスは神の子」であるとの信仰の告白を共にしてまいりたい。