2016年6月19日礼拝説教 「キリストと共なる今日」

                   2016年6月19日

聖書=ルカ福音書23章39-43節

キリストと共なる今日

 

 主イエスの十字架を挟んで右と左にもう1本ずつ十字架が立てられた。犯罪人たちのものでした。二人の犯した犯罪がどんなものであったのか分からない。強盗や殺人、暴動という重罪であったろう。何回も犯罪を繰り返し、その結果、十字架刑に処せられた。二人は、この時まで悪事のパートナーで一緒に罪を犯してきた。ところが、ここで大きな違いが出た。

 

 一人の犯罪人は取り巻いて騒いでいる周囲の人と同じように、イエスを罵る。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。イエスを十字架に付けた祭司長や議員たち、民衆と同じ言葉です。しかし、言葉の重さが違う。犯罪人の罵りの言葉は絶望の叫びです。「お前は自分が救い主と言いながら、自分を救えないではないか。俺たちと同じように死のうとしている。お前の神は何も助けないのか」と喚いている。神も仏もない。どこにも救いはないという叫びです。今日も、このような、どこにも救いはないという絶望の叫びが、至る所から聞こえてくる。

 

 もう一人の犯罪人も、この時までは同じように世を恨み、身の不運を嘆いていた。しかし、十字架に付けられてから、隣で十字架に付けられているイエスという人の姿とその言葉が彼を捕らえた。まもなく死ぬ。この極限状況の中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、処刑する者たちのためにとりなしの祈りをしているイエスの姿と言葉が彼を捕らえたのです。この人はただの人ではない、と気づいた。ある聖書の注解者は、「主イエスはここで最後の対話をしておられる」と記します。主イエスは「父なる神のところには赦しがある」と言われたのです。数時間後には死ぬことが確かな状況の中で、主イエスは祈りの言葉を通して神の元には赦しがあることを示されたのです。この主イエスの言葉を、この犯罪人はしっかりと受け止めたのです。

 

 主イエスの祈りの言葉を聞いて、彼はわめき続ける犯罪人をたしなめて語ります。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。…」。2つのことを見てまいりたい。1つは「お前は神をも恐れないのか」と言ったこと。今まで、神をも人をも恐れない生活をしてきた。乱暴狼藉を働き、欲望のままに生きてきた。ところが命の終わりを目前にして神を恐れている。すべてを正しく裁く神がおられることを恐れている。2つは、「我々は、自分のやったことの報いを受けている」という自分の罪に対する自覚です。私たちは悪いことをしても、それを認めない。「盗人にも三分の理」と言うが、理屈を付けて自分の罪を他人のせいにする。親が悪い、社会が悪い、教師が悪い、連れ合いが悪いと言って、自分は悪くないとしてしまう。

 

 この人は、自分の生涯を振り返って取り返しのつかない多くの罪の数々を犯したことを思い起こして、命の終わりを目前にして神の裁きを恐れている。自分の罪を認めることが悔い改めの基本です。良い行いをし、立派な人間になることは、救いの条件ではありません。自分の犯した罪を見つめて、神の御前に震えおののく心の在り方。それが悔い改めです。

 

 この人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。最後の最後で、イエスの方を向いた。イエスを見上げた。自分が救われるとは考えられない。ただ、イエスよ、あなたが神の国にお入りになる時には、わたしのような人間がいたということを思い出してください。思い出してくれたら、それで幸いだと言う。犯罪人としての過去を思うと、これだけしか言えない。「思い起こす」、「思い出す」。最もかすかな関係と言っていい。実質的なことは何もない。ただ思い出すだけでいい。イエスが神の国にお入りになったら「あぁ、あんな男がいたなあ」と思い出してくれたら、それで結構です、と。この言葉に、この犯罪人の切ないまでの主イエスに対する想いが表れているのです。

 

 ある注解者は、この言葉を「この犯罪人の信仰の告白だ」と解釈します。今日、私たちが教えられている信仰入門の知識などから考えると、どの点から言っても信仰告白とはとても言えない。しかし、私もこの言葉はやはり彼の信仰の告白だと考える。イエスに対する熱い思いがある。イエスに対して必死にしがみついている。イエスに対する切なる思いこそ、立派な信仰であり、信仰の告白なのです。だれがなんと言おうと、主イエスご自身が彼の言葉を彼の信仰と受け止めておられます。主イエスは、苦しい息の中で言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。主イエスは、彼の願いを確かに聞き入れた。しかも彼の願いをはるかに超えて受け入れてくださったのです。

 

 「楽園」とは「パラダイス」という言葉です。元はエデンの園が意味されていたが、終末の時に再び回復される神の国を意味する言葉となった。その楽園に「私と共にいる」と言われた。この「いる」と訳された言葉はBe動詞です。入る・出るの入るではなく、「いる。存在している」です。英語で「You will be with Me」です。これに勝る言葉はない。「あなたは、救われている」、「あなたは今日、神の国に存在する」と言われたのです。

 

 この人の魂は、十字架上の極限状況の中で、主イエスに抱かれて、主イエスと共に、神の懐の中に導き入れられたのです。救いをいただくのに遅すぎるということは決してありません。「私は年をとりすぎた」とか、「病気で何にも出来ない」などと愚痴る必要はない。主イエスの十字架は、この犯罪人の罪をも担うためであった。罪のないお方が罪人の罪を担って苦しんでおられます。このキリストの十字架の贖いがある限り、私たちの救いは確かです。「主イエスよ」と呼び求める者の声を聞いてくださり、一人ひとりの魂をつかみ取ってくださいます。主を求める私たちの魂を包んでくださって、「あなたは、今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃってくださいます。赦しの恵みのすばらしさがここに現されているのです。