2016年5月22日礼拝説教 「十字架の道行き」

                    2016年5月22日

聖書=ルカ福音書23章26-31節

 十字架の道行き

 

 ルカ福音書は、群衆の怒号がイエスを処刑場へと追いやっていく様を描いている。群衆がイエスを取り囲み、怒号の声によってイエスは処刑場へと追われていった。総督官邸から処刑場のゴルゴダの丘に至る道を、今日「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)と呼びます。1キロ半か2キロほどの道のりです。囚人は自分が架けられる十字架を背負って歩かされます。主イエスも、その道を十字架を担って歩まれました。

 

 悲しみの道での出来事が記されます。最初に、キレネ人シモンのことが記されます。「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」。この人はどういう人であったのか。「キレネ人」と言われているが、離散のユダヤ人の一人であった。北アフリカの海岸沿いにクレネというところがある。そこにユダヤ人の大きな集落があり、エルサレムへ巡礼に来ていた人です。この時、主イエスは疲労困憊していた。そこでローマの兵士が道端にいたシモンを強制徴用した。「お前が代わって担いで行け」と。

 

 シモンが十字架を担いだのは強いられてでした。イエスを愛していたわけではない。奉仕の精神で担ったのでもない。強制され、やむを得ず担ったに過ぎない。しかし、彼はやがて自分の担った十字架の意味が分かるようになった。十字架に付けられたイエスの姿を実際に見たからです。自分を十字架に付ける者たちのために祈るイエスの姿、犯罪人の一人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた言葉。その1つ1つの中でイエスというお方と、自分の担った十字架の意味を悟っていった。

 

 シモンは強制徴用されて十字架を担うことにより、主イエスと出会った人です。しかし、この出会いによって、やがて本人も家族もキリスト者となっていった。福音書記者ルカは、十字架を担って従うシモンの姿を描いて、ここにキリストの十字架を担って従う弟子たちの姿を示している。今日、私たちも自分の十字架を担って主の後に従うことが求められている。私たちは自分の自由意志で主に従っているように思うが、よく考えると神による強制です。恵みの強制と言ってよい。主イエスは私たちにも十字架を担わせてくださいます。主に従う道・ヴィア・ドロローサはどこにもある。十字架の主が、あなたも十字架を担いなさいと求めておられます。

 

 その後を、「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った」。「民衆」は「イエスを十字架に付けよ」と叫んだ人々です。「嘆き悲しむ婦人たち」とは、どういう人々か。ユダヤでは葬儀の時に「泣き女」がいた。死者への悲しみを表すため、親族がお金を払って近所の女たちに泣いてもらう風習があった。棺の後に従って墓場まで行列をして大きな声で大げさな身振りで泣き叫ぶ。この「婦人たち」は、イエスを死者として泣き真似をしてあざける女たちです。十字架に付けよと叫んだ民衆と一体です。心優しい女までもイエスをあざけって泣き女の真似をしている。

 

 大げさな身振りで泣き叫ぶ女たちの声を耳にした主イエスは、彼女たちの方を振り向いて、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と言われた。泣き女の真似をしている女たちに向かって、泣いている方向が違う、と言われた。イエスのために泣くのではない、自分たちとその子どものために泣けと言われた。

 

 「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」。生の木とは主イエスを指している。処刑の判決を受けて刑場への途上であるが、まだ生きている。泣き女が泣くのは死者が墓場に行く時です。イエスはまだ生きている。にもかかわらず死者として扱っている。それであるなら「枯れた木」は一体どうなるのだ、と言われた。もっと大声で泣かなくてはならないだろう。主イエスの言われた「枯れた木」とは、旧約の民イスラエルを指している。キリストを捨てたことによってイスラエルは神から捨てられている。いのちの源である神から離れて枯れ木になっている。その自分たちのために泣けと、言われたのです。

 

 29-30節のお言葉はまことに厳しい。この主イエスのお言葉は旧約・哀歌2章13-15節、ホセア書10章8節が用いられています。災いと幸いとが逆転する時が来ると、主イエスは語られた。女性にとって子を産むこと、子を持つことは幸いです。ところが反対のことが幸いであると言われる時が来る。子を産まなかった人が「あなた、よかったわね」と言われる時が来るのだと。裁きの時には皆、神の前に立って裁かれる。罪人は神の裁きに耐えられない。そこで、「山や丘に向かって、『自分の上に崩れ落ちて、わたしを押しつぶして、土砂で覆って見えなくしてくれ』と叫ぶようになる」、と、主は言われた。

 

 しかし、主イエスはここで裁きの厳しさを語っているのだろうか。そうではない。主イエスのこのお言葉は憎しみに対する憎しみの言葉ではありません。この30節の言葉は預言者ホセアの言葉です。ホセアは神の裁きに直面しているイスラエルのために涙を流して悔い改めを求めた預言者です。自分の妻の不貞に苦しみながら、その妻の不貞の痛みを担い続け、愛をもって妻の贖いをした人です。主イエスはホセアの言葉を引用して、自分を十字架に追いやっている者たちに、あなたたちは自分の姿をよく見つめろと言われているのです。神から離れて枯れ木になっているではないか。神に帰るために大事なことは、自分の本当の姿を知ることだ。いのちの源から離れて枯れ木になっている。それに気付け。そして泣いて悔い改め、神のところに戻れと言われているのです。

 

 神から離れて枯れ木となっている人たちの罪を背負って、主は今、ゴルゴダへの道を歩んでおられます。主イエスは生きていのちを与える木なのです。私たちも自分の惨めな罪の姿をしっかり見つめて、罪を悲しみ、主のもとに立ち帰り、シモンのように十字架の主に従って歩む者となりたい。