2016年4月17日礼拝説教 「 主は見つめられた 」

                 2016年4月17日

聖書=ルカ福音書22章54-62節

主は見つめられた

 

 主イエスが捕らえられて大祭司の屋敷に連行された時、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げ去った。しかし、ただ一人違う行動をした男がいた。ペトロです。「ペトロは遠く離れて従った」。「従った」という語は、弟子たちが最初に召された時と同じ「従う」です。福音書記者ルカは、弟子たちが逃げ去ったことには沈黙している。ただ一人ですがペトロは従ったと記す。ただ「遠く離れて」と付け加えている。逃げなかったが、人目を避けるようにこっそり遠くから従うペトロの姿が描かれている。このペトロの姿の中に私たちの姿も映しだされている。私たちはキリストに従って生きることを決意して洗礼を受けた。しかし、恐れに捕われ遠く離れこそこそと従う、情けない歩みをすることもある。ペトロは私たちの姿です。

 

 大祭司の家での尋問は正規の裁判に備える予備尋問です。その中庭で、別の事件が進んでいる。ペトロに関わることです。ペトロは一度は逃げた。しかし、思い返してこっそりと大祭司の中庭に潜り込んできた。そこで3度にわたって、主イエスを否認してしまった。その否定は「わたしはあの人を知らない」から、「いや、そうではない」となり、最後は「あなたの言うことは分からない」と激しく自分とイエスとの関係を拒絶した。

 

 ここに人間の持つ弱さとしての罪の姿が現されている。聖書では罪を「弱さ」としても理解しています。ローマ書5章6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。ペトロのイエス否定は積極的に罪を犯すものではなく、弱さとしての罪の問題です。これは私たちの問題でもある。進んで罪を犯すよりも、自分の意に反して罪を犯すことの方がはるかに多い。他人ごとでなく、ペトロの出来事は私たちの毎日の生活の中での出来事でもあると思う。

 

 女中がペトロに目を留め「この人も一緒にいました」と言った。原文には「彼と」とある。「この人も、彼・あのイエスと一緒にいた」です。ペトロは打ち消し「わたしはあの人を知らない」と言い逃れをした。キリストの弟子である告白の放棄です。自分の意に反して、自分を守るために、恐れから罪を犯してしまった。一度責任を放棄すると、さらに自分を弁護するためズルズルと罪を犯す。他の人が「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、「いや、そうではない」と言ってしまう。軽い否定でも一度してしまうと、もう後に引けなくなってしまう。別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言う。「ガリラヤなまり」という推測に過ぎない。ガリラヤなまりの人はイエスの弟子だけではない。たくさんいた。しかし、そんなことを考える冷静さを失っていた。「あなたの言うことは分からない」と強くイエスとの関わりを否定することになってしまった。

 

 ペトロの否定が大祭司の前での否定でなく、仲間内と言える人たちの中で起こったことです。日常性の中での軽い否定。ありふれた生活の中で否定が始まる。それがやがて取り返しのつかない大きな否定になってしまう。ペトロも大祭司の前で公然と問われたのであれば、キリストの弟子であることを堂々と答えたかもしれない。ところが相手にするに足りない人から問われた時に曖昧さの中でうやむやにしてしまった。

 

 「言い終わらないうちに」、突然「鶏が鳴いた」。ペトロはハッと我に返った。主が「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉を思い出した。自分が今、何をしているのか気付かされた。この時、ペトロは主イエスのお言葉だけでなく、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しております」と大言壮語した自分の言葉も思い起こした。脆く崩れてしまった自分の姿を知った。

 

  主イエスは「振り向いてペトロを見つめられた」。主イエスはこっそりと隠れて従っているペトロを承知していた。ペトロの言葉も聞いていた。主イエスは今、ペトロの方を振り向き「ペトロを見つめられた」。ペトロは主イエスのお言葉を思い起こすと共に、主イエスのまなざしを感じた。この時の主イエスのまなざしは、どんなものだったろうか。怒りや悲しみというよりもペトロへの深い同情と愛があった。ペトロを見つめるまなざしは、厳しい叱責ではなく、彼の弱さを思い、彼のために祈る愛情があった。ペトロは自分の弱さを思いやってくださる主のまなざしを感じた。主イエスに見つめられて、ペトロはここで大事なことを知ったのです。主イエスがすでに自分のキリスト否定を前から知っておられたことです。弱さのゆえに罪を犯すことを知って、そのために祈ってくださる主の愛を知った。

 

 ペトロは「外に出て、激しく泣いた」。ここでペトロが流した涙は、どういう涙だったか。なによりも自分の弱さと罪の大きさ、罪の深さをなげく涙でした。しかし、罪の大きさに打ちのめされながらも、この自分の弱さと罪とを全部知っていてくださるお方がいるという嬉しさです。取り返しのつかない罪を犯してしまったけれども、この自分が受け止められている。主イエスは「シモン、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われています。主イエスは弱い、情けない自分を知り抜いていて下さり、この自分の回復のために祈っていて下さった。ここにペトロの回復の希望がある。それは同じたぐいの罪を犯す私たちの回復の希望でもあります。主イエスは、このペトロと同じような罪を犯す私たちの罪をも背負って十字架につかれたのです。

 

 主イエスが、私たちの弱さも罪も含めてすべてを知っていて下さることに、私たちの回復の希望があるのです。自分の決心や誓いがいかに脆いものであるかを、私たちは知っています。しかし、私たちの弱さとその罪を知って、主は十字架を引き受けておられるのです。私たちは主イエス・キリストの執り成しの祈りと十字架の恵みに望みを託して生きるのです。ここに、振るわれ、挫かれた者が再び生かされて用いられる道があるのです。