2016年4月10日礼拝説教 「 闇が力を振るっている 」

                    2016年4月10日

聖書=ルカ福音書22章47-53節

闇が力を振るっている

 

 深夜です。主イエスはオリーブ山のゲッセマネで汗が血の滴りのように落ちるという激しい祈りの時を持ちました。その後「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と、主イエスが弟子たちに話している最中に、その言葉をかき消すように群衆がなだれ込んできた。

 

 「群衆が現れた」。一般の民衆ではありません。「押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた」と記されている。「群衆」とは神殿当局者たちです。彼らはイスカリオテのユダを先頭に立ててやって来た。ユダは最後の晩餐を済ませてから単独行動をした。祭司長や神殿守衛長たちのところに行って、彼らと役人たちを引き連れて祈りの場にいる主イエスの元にやってきた。ユダは先頭に立って主イエスに接吻をしようと近づいて来た。暗くて人の判別がむずかしかったからです。ユダが近づいて接吻する人が目当ての人であると決めていた。

 

 主イエスは「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。「あなたは愛と信頼のしるしをもって、わたしを裏切るのか」という意味です。ルカ福音書では、この後ユダはどこにも登場しません。ここでユダの持つ意味を少しお話ししておかねばならない。イエスの逮捕と十字架の出来事はイスカリオテのユダの裏切りで始まりました。ユダは3年間、主と共に労苦してきた12弟子の一人です。主イエスが極みまでも愛していた一人です。そのユダが、なぜ、裏切ることになったのか。

 

 ユダは、群れの会計係として有能な弟子でした。信頼と能力がなければ会計は勤まりません。ユダは大勢の弟子たちがイエスに失望して去って行った時にも、イエスから離れませんでした。しかし、最後の最後で、自分の求める理想と主イエスがなさろうとしているイザヤ書53章の苦難のしもべの道とが大きく違うことに気付いたのではないか。「この人は本当にメシアなのか」という疑惑がユダを突き動かしていたのではないか。

 

 ヨハネ福音書では、最後の晩餐の前に主イエスは弟子たちの足を洗われた。足を洗うことは、この時代、奴隷の務めでした。それをラビと呼ばれる先生がおやりになる。これは自分の考えるメシア・救い主のイメージと大きく違うと確信したのではないか。ヨハネは洗足と最後の晩餐を描いて「この時サタンが彼の心に入った」と記している。主イエスはしもべとして仕えることを通して神の国をもたらせようとしています。しかし、それはユダが抱いてきたメシアの姿とは違うものでした。ユダは弟子の足を洗う主イエスに失望したのではないか。今日も同じです。私たち罪人の足を洗って仕える僕となられた主イエスを救い主として受け入れるのでなければ、キリストに失望して去って行くことになる。私たちはイエスをどのような救い主として受け止めるか。そこにすべてはかかっているのです。

 

 ユダの接吻に導かれて、剣や棍棒を持った捕り手に囲まれた。その時、出来事が起こった。「イエスの周りにいた人々は…、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言って、そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」。「周りにいた人々」とは弟子たちです。ヨハネ福音書では切り落とした人はペトロであったと記している。「主よ、剣で切りつけましょうか」とは、許可を求めているのではない。許可なく切り落としている。とっさに本能的に剣を抜いて斬りつけてしまった。怖ろしさでうろたえ、後先考えずに斬りつけてしまった。冷静に考えれば多勢に無勢。捕り手が大勢剣をもって囲んでいる。剣の一振り、二振りあったところで戦って勝算があるわけではない。恐怖心から剣を振り回してしまった。戦いは冷静な合理的判断からではなく、恐怖心から起こるのです。

 

 そのような中で、主イエスだけが冷静でした。「やめなさい。もうそれでよい」と言われた。是認の言葉ではない。禁止の言葉です。そして、しもべの耳に手を触れていやした。主イエスだけが冷静に落ち着いている。これによって始まりかけていた剣による戦いを避けられた。この時に言われた主イエスのお言葉をマタイ福音書が残しています。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。いつの時代でも変わらない真理です。今日の私たちもしっかり記憶しておくべき言葉です。

 

 主イエスは捕らえられました。神殿当局者たちは強盗を捕らえるように主イエスを捕らえて行った。手を縛られ、身体を縛られ、危険人物のようにして捕らえられた。そのような乱暴な取り扱いの中で語られた主イエスのお言葉です。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」。主イエスお一人が極めて冷静です。この言葉は主イエスの語られた皮肉・アイロニーと言っていい。あたかも神殿当局者たちが犯罪を犯すようにして自分を捕まえていると言われた。今、人類史上最大の犯罪が行われようとしている。罪なきお方を、罪人・犯罪人として捕らえている。人間の狂気、常軌を逸した暗闇の力がここに支配しているのです。

 

 神に背いた人間の横暴が支配する時、自分勝手な権力が横行する時です。これこそ暗闇の支配、サタンの支配の時なのです。親が幼い子どもを部屋に押し込めてパチンコに入り浸っている。数人がかりで同級生をいじめて殺してしまう。人間の手に余る原子力をコントロールして豊かさを追及しようという世界。憲法が変えられて、70年間の日本の平和が破られて戦争への道を歩む時代になっています。まさにサタンが支配している時なのです。神を認めない。神を畏れない。自分だけがうまくいけばいいという自己中心が常軌を逸した姿を見せている。しかし、主イエスはそこから逃げません。抵抗しません。それは、私たち罪の奴隷を解放するために、「悪魔を御自分の死によって滅ぼし」てくださるためです。主イエスは、罪人の解放のために、一時、闇の支配の中に身を委ねられたのです。