2016年4月3日
聖書=ルカ福音書22章39-46節
起きて祈りなさい
主イエスは最後の晩餐の後もしばらく弟子たちと話を続けられた。しかし今、決断をもってそこを出て行かれた。「いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」。「ゲッセマネ」と呼ばれていた静かな場所です。そこに来ると弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。「誘惑」とはサタンの試みです。主イエスは弟子たちへのサタンの誘惑と攻撃とを見ています。ペトロをふるいにかけるように試みたサタンは、イエスの弟子たちをいつもふるいにかけようとしている。その誘惑に打ち勝つ道は神に助けを求める祈り以外ありません。主イエスご自身「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈れと教えてくださった。人間の知恵や力でサタンに打ち勝つことは出来ない。神と深く交わり、神の霊に満たされる以外に勝利する道はありません。ただ一つの秘訣です。
「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて祈られた」と記されている。この時の主イエスの祈りは普通の祈りではありませんでした。激しく身もだえするような祈りでした。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」。マルコ福音書では「わたしは死ぬばかりに悲しい」との言葉を残しています。そのため「天使が天から現れて、イエスを力づけた」と記されています。祈りの戦い、祈りの戦場と言ってよい。それほど激しく厳しい祈りの時でした。
主イエスの祈りの言葉が記されています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。「この杯をわたしから取りのけてください」。これが第1の祈りです。「この杯」とは、主イエスがこれからお受けになる十字架の苦難の死を意味しています。ご自分が引き受けることとなる死を恐怖しているのです。「この杯」、即ち十字架の死を出来たら取りのけてほしい、回避させてほしいという祈りです。私たちは、イエスが受難の死を覚悟し、エルサレムで死ぬことを自覚していたことを知っている。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と繰り返し弟子たちに教えた。それなのに「この杯を取りのけて下さい」とは、どうしたことなのか。
それは、主イエスがご自分の死の意味を深く理解していたからです。死は病気であれ、事故であれ、呼吸が止まり肉体が朽ちていく死を考える。これは肉体の死です。しかし、主イエスがここで受け止めているのは「罪人の死」なのです。神の前に罪を犯した罪人の死と滅びです。神に対して罪を犯した者は神の裁きを免れない。これは本来、決して主イエスだけのものではない。すべての人は罪人であり、その罪に対して神が怒り裁かれる。人間はまことに罪人でありながら、その罪に対する神の怒りと裁きの真実、裁きの実相が分かっていない。鈍感なのです。アンセルムスという人は中世のカトリックの神学者ですが、十字架の出来事について深く考えた人です。アンセルムスは「私たちは、罪がどんなに重いのかということを、本当には考えたことがないのだ」と言っています。罪人は神の裁きの死について本当は理解できていないのです。主イエスはこの時、全人類の罪そのものの重さを感じておられる。罪そのものとなられた主は、罪に対して下される正当な神の怒りと裁きの真実の重さを受け止めておられる。これこそ神の御子であるお方だけが知ることの出来る恐れであり、おののきです。主は一人のまことの人として苦しみもだえておられるのです。
しかし、主イエスは次にこう祈られます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。ここにこそ、主イエスの祈りの心髄があります。父なる神の御心への完全な服従です。人となられた主イエスを罪人として死と裁きとに引き渡すことが、父なる神の御心です。この変わらない父なる神の御心にご自身を最終的に委ねられた。ゲッセマネの祈りの真実がここにある。祈りは、我が意志、我が願い、我が願望を貫くことではない。神のご意志への服従こそ、主イエスのゲッセマネの祈りにおいて学ぶべきことです。神の御心に服することが祈りなのです。主イエスはご自分の思いと願いを父なる神に訴えられた。しかし、自分の思いと願いの実現ではなく、父なる神の御心に完全に従うことを決断されたのです。これが本当の祈りです。この服従の祈りを、学ばなければならない。
しかし、弟子たちは「眠り込んでいた」。イエスが苦しみもだえて祈っていた時、弟子たちも共に祈るべきでした。主イエスの祈りに、弟子たちも祈りを合わせることが期待されていた。主イエスが祈りの戦いをしておられる時、弟子たちも起きて共に祈るべきでした。この時、眠り込んでいた弟子たちが、やがてキリストを知らないと否定し、さらに捕らえられた主のもとから逃亡していくのです。祈りにおいてキリストに結ばれていなかったからです。弟子たちが逃亡してしまった原因がここにあります。
私たちへの誘惑はたくさんあります。お金が儲かる、大きな家に住むことが出来る、カッコいい生活をすることが出来る。苦しいことをしなくても楽しく生きよう。私たちを取り巻く世界は多くの誘惑に満ちています。そのような誘惑に打ち勝つために、主イエスは一人ひとりに、今も「起きて祈っていなさい」と命じているのです。「起きて祈る」とは、断食祈祷をすることでも、徹夜祈祷をすることでもありません。キリストとの結合に生きることです。祈りの生活を不断に続けることです。私たち、弟子たちが信仰と救いの道筋を踏み外さないで生きていくただ一つの道は、ゲッセマネで苦しみ祈る主イエスのお姿をしっかりと心に刻むことです。人間が本当には理解できない罪の深さと恐ろしさとを、私たちに代わって受け止めておられる主イエスのお姿を思い浮かべることです。そして、キリストが父なる神に完全に従われたように、私たちも神の御心への服従に生きるのです。神の御心を知り、御心に従うことを祈り求めてまいりましょう。