2016年3月27日礼拝説教 「 ガリラヤ湖の朝 」

                    2016年3月27日

聖書=ヨハネ福音書21章1-14節

ガリラヤ湖の朝

 

 イースター、おめでとうございます。ヨハネ福音書はわりあい詳細に復活後の主の活動を描いています。非常に大切なことです。私たちは終わりの時に復活するだけではない。キリストの復活は現在の私たちを活かす力です。復活のキリストに結ばれ新しく使命に生きる者とされるのです。

 

 テベリアス湖(ガリラヤ湖)は、弟子たちにとり懐かしいところです。なぜかここには7人の弟子しかいません。今、彼らは伝道活動を止めてしまっている。これから、どうしていいのか分からなかった。弟子たちは一人、二人とガリラヤ湖畔に集まってきた。郷里に帰ってきた。しかし、別の理由があった。復活した主がガリラヤに行くことを命じられたからです。復活の主が、「ガリラヤに行け」、「ガリラヤで会う」と言われた。ところが、ガリラヤ湖畔に戻って来ても迎える人はいなかった。彼らは復活のイエスが出迎えてくれる、主にお目にかかれると期待して帰ってきた。しかし、主イエスは見あたりません。なにも起こらない。主はおられないようです。

 

 この時の弟子たちの心は鉛のように重かった。ペトロはやりきれない思いで「わたしは漁に行く」と言う。漁に行くしかやることがない。他の人たちも「それなら、わたしたちも一緒に行こう」と、皆で行くことになった。重苦しい空気を吹き飛ばすには、これ以外なかったかもしれない。結局元の仕事に戻った。出ていって船に乗り込み、一晩中漁をした。「しかし、その夜は何もとれなかった」。虚しく帰ってきた。なんの収穫もない。

 

 そんな時です。虚しい思いの弟子たちを待ち受けている人がいた。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」。復活の主はいなかったのではない。彼らより先に来て、確かに待っておられた。しかし、その人がイエスであると分からなかった。主の復活の出来事に共通している特徴です。見ているのに見えない。なぜ、気付かなかったのか。信仰の目が開かれるのでなければ、見れども見えずなのです。信仰の目が開かれなければならない。

 

 そのお方は「子たちよ、何か食べる物があるか」と問う。主イエスの方から言葉をかけられた。弟子たちはぶっきらぼうに「ありません」と答える。すると主は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。夜通し網を打ってきた。にもかかわらず何一つとれなかった。このお方の言葉を受けた時、彼らがどう感じたか、何を考えたかは記されていない。ただ「そこで、網を打ってみ」た。元気も気力もなかった。言うとおりに網を打った。何の手応えもないだろうと思いながら網をたぐり寄せた。

 

 突然、不思議な手応えが指に、腕に、全身に伝わってきた。彼らはハッとした。かって一度味わったことのある手応えです。思い起こした。そうだ、あの日の朝と全く同じ手応えだと感じた。初めて主イエスにお会いして主に従う決心をしたあの朝の出来事を思い出したのです。「イエスが愛しておられたあの弟子」のヨハネが「あれは主だ」と叫ぶ。ペトロも何もかもあの朝と同じだと気付いた時、すべてが分かった。なぜ、復活の主がガリラヤ湖畔で再び会うと言われたのか。なぜ、ここで復活の主にお目にかからねばならなかったのか。弟子たちも遅蒔きながら気が付いた。すると、主イエスが最初にペトロを召した時に語られた御言葉もよみがえってきた。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)。ペトロは合点が行きました。そうだったのか。このことを自分にもう一度鮮明に教えるために、もう一度本当に自分を「人間をとる漁師」として回復してくださるために、ここで待っていてくださったのだと悟ったのです。

 

 復活の主は待っていてくださった。迎えてくださった。彼らが「陸に上がってみると」、すでに食卓の用意がしてある。疲れ切った体、主はいないと失望し傷ついた心を暖かく包んでくださった。食卓は完全に用意されていた。その食卓の中に、主イエスは今収穫したばかりの魚を加えてくださいます。「今とった魚を何匹か持って来なさい」。主イエスは労働の稔りを大切にしてくださいます。いや、これからは弟子たちが収穫してくるのです。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。彼らは夢を見ているようでした。もうだれも「あなたはどなたですか」と尋ねる者はいません。「主であることを知っていたからです」。弟子たちは「ガリラヤに行け」と言われた主の御言葉の意味を悟ったのです。

 

  このガリラヤ湖畔の朝の出来事を、ペトロはその後、何年、何十年たっても鮮やかに覚えていて、この日の出来事を採れた魚の数まで詳細に繰り返し語った。エルサレムの教会で、異邦人の教会で、殉教の死を遂げることになるローマでも繰り返し語ったにちがいない。主との交わりである食卓のすばらしさだけではありません。ペトロは遅蒔きながら悟ったのです。なぜ、主がガリラヤに行けと命じ、ガリラヤ湖畔で会われたのか。それは新しい使命に回復してくださるためでした。最初の決断に戻るということ以上のことでした。挫折から回復しての使命の回復のためでした。

 

 弟子たちは復活の主にお会いして喜んだが、その後どうしていいのか分からなかった。人生そのものが色あせて無意味に思えていた。その時に、復活の主が岸辺に立って待っていてくださった。主は、ガリラヤの岸辺で弟子たちが新しい復活の命に溢れて、主の弟子としての使命に生きる者とさせるために待っておられた。これはペトロだけの経験ではありません。他の弟子たちも同様でした。私たちも復活の主と出会うところで、新しく人生の使命を受け止めるのです。この道を行くのだ。あなたはこう生きなさい、と。これは復活の主イエスが整えてくださった食卓、今日の聖餐の式にあずかっているすべてのキリスト者が味わうことのできる恵みの現実なのです。復活の主は今もここにおられて、私たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いていてくださいます。この復活の主を信じて、恵みの手応えに感謝してそれぞれの使命を再確認して生きていくのです。