2016年3月20日礼拝説教 「十字架を見上げて 」

          2016年3月20日

聖書=マルコ福音書15章33-41節

十字架を見上げて

 

 本日は受難週の礼拝です。主イエスは最後の晩餐の後、ユダの裏切りによって神殿当局者に捕らえられました。木曜日の夜遅くのことでした。その夜からあちこちと引き回され、夜が明けると総督ピラトの法廷で十字架の処刑が決まり、直ちに執行されました。

 

 「昼の12時になると、全地は暗くなり」。この時、主イエスは十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫ばれた。「わたしは神に見捨てられている」という悲痛な叫びです。以前、求道者会でこの言葉を読みました。ある学生から「なぜ、イエス様ともあろう人がこんな惨めなことを語ったのでしょう」と質問された。イエス様は勇敢に殉教者のように死んだと思っていた。ところが聖書が記すイエスの姿は違っていた。同胞に見捨てられ、弟子たちから見限られ、さらに神からも見捨てられている。惨めな見捨てられた人間としての死でした。「なぜ」と思うのは当然のことです。

 

 主イエスの死は単なる肉体としての死だけではなかった。主イエスは確かに人間であればだれでも経験する肉体の死に直面していました。しかし、それだけであれば人は皆、死を経験する。そして、肉体の死は必ずしも「神の見捨て」ではありません。主イエスは肉体の死と共に神の裁きとしての死とに直面していたのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びは、神から見捨てられた者の叫びです。父である神がイエスを十字架において裁き、呪い、見捨てている。これが十字架の出来事の真相です。主イエスは十字架において神から見捨てられた世界、真っ暗な地獄と言ってもよいところに突き落とされている。滅びを体験している。このことを割引して考えてはならない。十字架のイエスは勇敢な殉教者などではなく、罪の塊として神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのです。

 

 主イエスの受難は人間的にどんなに苦しんだか、どれほどさげすまれ、どれだけ鞭で打たれたか、どれほど多くの血を流されたかという肉体の苦しみのところには焦点はない。それらはイエスの苦しみのほんの入り口です。主イエスの最も大きな苦しみは、神のみ子である方が神から見捨てられるという苦しみです。罪を犯している人間が神に裁かれるのであれば当然です。しかし、主イエスは人となられた神のみ子。そのお方が神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのです。

 

 なぜ、主イエスはこのように神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験しているのか。イエスが救い主、キリストだからです。神のみ子であるお方が、罪人の私たち人間に代わってくださった。主イエスは罪人として、神に呪われ、見捨てられ、滅びを体験している。それは神が聖にして義なるお方であるからです。神は聖なる神、正しい神です。神は私たちの罪をそのままにしてはおかれません。神は罪を憎み、罪を裁かれます。罪をそのままにして神と人との交わりは出来ない。同時に神は愛なる神です。罪人が滅びることを喜びません。罪人の救いをご計画になる神です。この神の愛と義がキリストによる身代わりという救いの道を設けられたのです。神の愛と義が神の独り子であるお方の十字架の見捨てと滅びとを実現させた。主イエスは、父なる神に遣わされて私たち罪人に代わって罪に対する神の裁きを一身に受けて、神の見捨てと地獄の滅びとを体験しておられるのです。

 

 この主イエスの十字架の叫び声は、最早、私たち罪人が決して見捨てられないということの証しです。ある聖書の注解者は「自分の惨めさを言い表すことの出来る人は、救いをここに見出だすことが出来る」と言いました。自分の惨めさ、神から遠く離れていること、自分が神に裁かれるべき罪人であることを認めることの出来る人は、十字架の主イエスの姿に救いを見出だすことが出来るのです。あなたに代わって、私に代わって、主イエスはこのように罪の支払いを済ませて下さったのです。

 

 この十字架処刑の執行官として職務上その正面に立っていたのは百人隊長です。この百人隊長がだれも予想しなかったことを語るのです。彼は主イエスが息を引き取った時、「本当にこの人は、神の子だった」と語った。彼は神から遠いところにいた人です。しかも任務とは言え、イエスを十字架という最も残酷な処刑方法で処刑した人物です。しかし、マルコ福音書はこの百人隊長を悪く言わないだけでなく、主イエスの最後の最も大事なところで、主イエスの最高の証人として記している。「本当にこの人は、神の子だった」と告白したと記す。当時の人々から言えば驚くべき言葉です。一人の人間、しかも極悪人が掛けられる十字架で死んだ人を、その処刑を担当した人が「神の子だ」と言った。

 

 彼はイエスの生涯についても何も知らなかったと言ってよい。その彼が罵られても罵り返さず、周囲の人の罪を赦し、十字架で苦しんでいるイエスのお姿を見て率直に告白したのです。イエスの死の姿を見て「本当にこの人は、神の子だった」と言った。今、主イエスの十字架の出来事は、福音書の記事を通して私たちに示されています。この百人隊長はイエスについてごくわずかのことしか知らなかった。聖書の知識が乏しくていいということはありません。しかし多くの知識を持つことは必ずしも必要なことではない。大事なことは、イエスの十字架をしっかり見詰めることです。十字架をしっかりと見詰めるところで、救い主となられた神のみ子の本当の姿を見ることが出来るのです。有名な説教者にスポルジョンという人がいました。スポルジョンは事あるごとに「イエスを見るのだ。イエスの十字架を見るのだ」と、繰り返し語り続けた。これは確かなことです。主イエスの十字架の出来事をしっかり見詰めるところで、キリストを信じるまことの信仰が産み出されるのです。今、主イエスの苦しみ、特に十字架の苦しみについて見詰めてまいりました。私たちの生涯をかけて主イエスの十字架を見上げていきたい。この十字架のイエスに救いがあるのです。