2016年3月13日礼拝説教 「罪人となられた神の御子 」

                    2016年3月13日

聖書=ルカ福音書22章35-38節

罪人となられた神の御子

 

 この個所は説教するのにむずかしいところです。しかし、注意して読むと非常に重要なことが語られていることが分かります。大事なことですが断片的に語られているのです。3つのポイントで学んでまいりましょう。

 

 最後の晩餐の席で、主イエスの卓上談話が続いている。第1は、弟子たちを取り巻く状況の変化です。「イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』」。ここで言われていることは何か。ルカ福音書9章1節以下の出来事で、主イエスがガリラヤで伝道していた時のことです。12弟子を伝道に遣わした。その時、主は「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」と言われた。弟子たちは不安で心細かった。しかし、出掛けていくと、多くの人が弟子たちを快く迎え何不自由なく伝道することが出来た。多くの成果を上げ喜びに溢れて帰ってきた。ガリラヤの春のような懐かしい想い出です。イエスに対する歓迎の思いと期待があり、イエスの弟子たちを歓迎してくれた。ですから、弟子たちも答えます。「いいえ、何もありませんでした」。

 

 主イエスは改めて弟子たちに言われた。「今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と。「しかし今は…」と言われた。状況が変わったのです。かつては多くの人がイエスとその弟子たちを喜んで迎えてくれた。イエスの弟子ということで、人々は喜んで迎えてくれた。お金や生活用具を入れるバッグなど、何一つ持たなくても安全に旅をし困ることもなかった。

 

 しかし、この夜を境にして状況が一変すると言われた。イエスの弟子であるからといって人々は歓迎してくれない。むしろ嫌われ、厄介者として扱われ、迫害されることもあると言われた。イエスの弟子ということで歓迎されない状況が来る。だから「財布も袋も持って行きなさい」と言われた。今日の私たちも同じ状況の中に置かれていることを理解し、状況を受け止めていかねばならない。イエスの弟子だからといって、世間の人は歓迎してくれない。嫌われ、厄介者として扱われ、迫害されることもある。

 

 第2に学ぶことは、その状況変化の理由です。主イエスはお語りになった。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。主イエスは犯罪人になると言われた。犯罪人の仲間など厄介者として扱われ、歓迎されません。ここで大事な言葉がある。「その人は犯罪人の一人に数えられた」。イザヤ書53章12節です。イザヤ書53章はキリスト教信仰にとって極めて大切な箇所です。使徒たちはイザヤ書53章を用いて旧約に証しされているキリストを証言した。その源はイエスご自身がご自分をイザヤ書53章の語る苦難のしもべとして語ったからです。

 

 主イエスがご自分の口で「苦難のしもべ」を、自分のこととして「わたしの身に必ず実現する」と言われた。大切なキリストの証しのお言葉です。ここに、私たちの救いの成就が語られている。「罪人のひとりに数えられた」。このイザヤ書53章12節の言葉が「わたしの身に必ず実現する」と言われた。「犯罪人」という言葉は、旧約本文では「罪人」です。厳密には「律法を持たない人」。しかし、主イエスはあえて「犯罪人」と言い直された。律法を持たない人というだけではない。神の律法を無視する者。神に背く無軌道な人間、極悪人、重罪人、犯罪者の一人とされるのだと言われた。事実、主イエスは国家の反逆者として処刑された。

 

 主イエスが犯罪人に仕立て上げられて殺される、処刑される。「必ず」とは神の決定で、必ずそうなる。「実現する」とは、「終点に至る」、「完成する」という意味の言葉です。イザヤ書53章で語られている見る影もない苦難のしもべは、いったい誰のことか。あの人でも、この人でもないと、問い続けられてきた。その不思議なしもべの物語が、ここで終点に至る、完了するのだと言われた。まことに主イエスは私たち罪人、神に背く重罪人の身代わりです。彼は不法を働かず偽りもなかった。その人が犯罪人、極悪な者として捕らえられ、裁かれ、命を断たれた。私たちの咎のため、私たちの背きの故でした。主イエスの十字架において苦難のしもべの物語が完了した。これによって贖いがなされ赦しの恵みが与えられるのです。

 

 第3に学ぶことは、このキリストの苦難の道に従う厳しい覚悟が求められているのです。今までイエスを支えてきた多くの人が、「十字架につけよ」、「十字架につけよ」と叫びだした。イエスを処刑したのは祭司長や律法学者たちですが、民衆の支持なくしては出来ません。民衆も、この男は極悪人、犯罪者だと決めつけて「十字架につけよ」と叫んだ。弟子たちが出て行くのはイエスを十字架につけた世界です。これはユダヤ人社会だけのことではない。異邦人の世界も同じです。神に背を向けた人の世界です。伝道者を喜んで迎えるような世界ではありません。

 

 伝道者を迎える世界は厳しい世界です。主は「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われた。弟子たちはこの言葉を誤解した。「相当の覚悟をしなさい」という意味の言葉です。「服」とは上着のこと。当時、上着は貧しい人には夜具、布団を兼ねていた。寒さの厳しいところでは生活必需品です。旧約でも上着は質にとってはならないと規定されていた。貧しい人は寒い夜、たった一つの上着を身にまとって寒さに耐えた。主イエスはその大切な必需品の上着さえも売ることを覚悟しなさいと言われた。私たちの主とあがめるお方は「犯罪人の一人に数えられ」た方、極悪人として処刑されたお方です。私たちはこのお方を主と信じる。人々の白眼視、無理解、警戒心の中で、このお方こそ真の救い主であると証しをしていくのです。今日の伝道は、寒さをしのぐための上着さえも売らねばならないほどの相当な覚悟が求められているのです。主のみ足の跡に従う伝道です。