2016年3月6日礼拝説教 「 祈ってくださる主 」

                   2016年3月6日

 

聖書=ルカ福音書22章31-34節

祈ってくださる主

 

 だれが一番偉いかという議論が起こった時、ペトロはどういう態度を取っていたか。第一人者は私だ、自他共に認めていると思い、余裕を持って仲間の議論を聞いていた。自分はそんな醜い争いの中には入らないと高みの見物を決め込んでいた。「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われた主イエスのお言葉に対しても、自分のこととしてではなく、他の人に対する言葉として聞いていた。自分に直接関係がないと判断すると、神の言葉も他人に対する言葉として聞いてしまう。耳を閉ざしてしまう。ところが、自分には直接関係がないと思いこんでいたペトロに対して、主イエスは「他人事ではないぞ」と言われたのです。

 

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。ペトロはびっくりした。自分の信仰が無くなるようなことがあってたまるか。自分の信仰の確かであることを誰よりも確信していた。ですから、堂々と答えている。「『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った」。ペトロも主イエスに危機の差し迫っていることは分かっていた。先生が捕らえられようが、殺されようが、私はあなたに従いますよ、と真剣に決意を語った。

 

 しかし、主はペトロの決意が崩れることを見抜いています。「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。この言葉はヨブ記の冒頭を思い起こさせる。ヨブ記の物語がここで始まっている。サタンが、ペトロの信仰を試してよいかと、神に伺いを立て、神がそれが許可していると、主イエスは言われた。ペトロの信仰が試されたように、私たちの信仰も試される時があることを覚えねばならない。「ふるいにかける」とは、要らないものは落ちて大切なものが残ると理解することも出来る。逆に粉のように純粋なものが落ちて雑多なものが残ると理解することも出来る。ここでの真意は、「ふるいにかけて揺すってみる」ことです。ふるいにかけて揺すってみると、塊になっていて今まで見えなかったものが見えてくる。

 

 ペトロがふるいにかけられ揺さぶられると、そこに彼の本当の姿が現れてくる。弟子の筆頭だとうぬぼれている人の本当の姿が見えてくる。信仰を失ってしまう弱い人間の姿です。すぐにそれが事実となる。主イエスが捕らえられ裁かれていた時、ペトロは一人の女に「この人もイエスと一緒にいた」と言われると、あわててそれを打ち消して「わたしはその人を知らない」と言ってしまった。思わず口から出た言葉ですが、もう後戻りは出来なかった。何度も繰り返してしまった。キリストと関係がないとは、信仰を捨ててしまったことなのです。

 

 聖餐にあずかるのは誰かということは教会にとって大切な事柄です。聖餐にあずかるのは信仰をもって洗礼を受けた者と規定しています。そして、聖餐にふさわしくないのは信仰を捨てた人だと考えてきた。後の紀元1世紀末から3世紀にかけて、キリスト教会は迫害の時代に入ります。ローマ帝国が国家として教会迫害に立ち上がった。その時、信仰を捨てる人がたくさん現れた。迫害を大きく受けたのは聖職者たちです。司祭や司教と呼ばれている人でも迫害に負けて信仰を捨てた人が多くいた。やがて迫害の嵐が収まって、この時、棄教した人たちが教会に戻って来た。この人たちが聖餐にあずかることが許され、司祭や司教に戻れるかということが大きな議論になった。司祭や司教ともあろう人たちが信仰を捨て、イエスを否定して、帰ってくることなど出来るはずがないという意見が強かった。

 

 使徒の代表者とも言えるペトロが、ここで典型的な不信仰の罪を犯していることを見ておかなければならない。その後の教会の歴史の中で、多くの信仰者、神父や牧師たちがつまずき、不信仰の罪を犯してきた。彼らをどう処置したらいいのか。このことを論じる時に、この個所は大きな示唆を与えてくれる。ペトロがイエスを知らないという不信仰の罪を犯した。厳しい拷問にあったのでもない。家族が殺されるという脅迫の中でもない。女の「あなたもあの人と一緒だった」という一言で、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまった。信仰を捨てた者たちをどう処置するかということは、このペトロをどう処置するのかという問題なのです。

 

 大失敗をしたペトロは、しかし後に教会の柱となります。ペトロがだれよりも立派な償いの道を歩んだからか。聖書にはそんなことは一言も記されていない。ペトロが立ち直ったのは主イエスの祈りでした。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。「祈った」と言われている。主イエスがペトロに警告を与えた時、すでに祈ってくださっていた。いつ、祈られたのか。主の晩餐の制定の時ではないか。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃったその時、ペトロだけではない、すべての弟子たちの信仰が無くならないようにと祈られたのです。聖餐にあずかる時に、私たちはこの祈りの中にいることを覚えねばならない。主の晩餐の食卓にあずかり続けているかぎり、この祈りに支えられて、信仰を失わないで歩むことが出来るようにと、主イエスご自身が祈ってくださっている。

 

 「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ペトロの立ち直りは兄弟たちの回復のためです。その使命に向かっての立ち直りです。「兄弟たち」、同じ信仰の仲間です。これから教会に加えられる人たち。その人たちの中にはペトロが体験したような「ふるい」にかけられるようなつらい経験、信仰の挫折にも出会う。その時、あなたのこの体験が意味を持つのだと言われた。あなたが立ち直った秘密を語りなさいと言われているのです。自分が立ち直らせていただいた主イエスの祈りとまなざしがあることを証ししなさい。それが「力づけること」なのです。