2016年2月7日礼拝説教 「 サタンに心を渡す時 」

                    2016年2月7日

聖書=ルカ福音書22章1-6節

サタンに心を渡す時

 

 主の十字架の出来事の最初にイスカリオテのユダの裏切りが記されています。ユダは使徒の一人です。主が真剣な祈りをもって使徒として選んだ人で有能で会計を任されていた。そのユダが、なぜ主イエスを裏切ったのか。ユダの裏切りは大きな謎です。文学者や神学者によって多くの書物が書かれてきました。いろいろなことが言われています。しかし、聖書は「ユダの中に、サタンが入った」と記しています。

 

 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらいいかと考えていた。主イエスがエルサレムに入ってからの論争を通して、祭司長、律法学者たちは自分たちの権威が失われ、イエスへの憎しみが増大し、彼らは一致してイエスをこのままにしてはおけない、殺す以外ないとしていた。しかし、民衆を恐れて手が出せないでいた。民衆はまだイエスの中に預言者やメシアの夢を見ていたからです。

 

 そこにイスカリオテのユダがやって来た。「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」。ユダの方から出かけていった。マタイ福音書に、この時のユダの言葉が残されている。「十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った」(マタイ26:14-15)。このユダの申し出を、祭司長たちが喜んだ。「彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた」。小躍りした。「これでイエスを殺せる」と。ユダは金の話を自分から持ち出し、銀貨30枚という奴隷一人の金額でイエスを引き渡すことを約束した。

 

 私たち、納得できないのではないか。ユダは生活を投げ捨てて主に従った。主イエスに愛され、使徒とされ、親しい交わりの中で育てられた。そのユダが僅かな金のためにイエスを売るのは理解できない。不合理です。この理解できない不合理こそ「ユダの中に、サタンが入った」からです。「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねら」った。ここから坂道を転げるように十字架への道が開かれていった。

 

 サタンは闇の支配者です。サタンの実在を受け止めない人もたくさんいる。サタンは陰のようなもので非存在だと言う人もいる。サタンは陰のようなものですが確かな実在なのです。サタンの実在を受け止めないと、聖書が理解できないし信仰の営みもおかしくなる。聖書はサタンについて控えめにその実在を語る。サタンは、神に造られた天使でしたが、その力と魅力の故に神に敵対し反抗する存在になった。サタンは、イエスの全生涯にわたって背後から救い主としての失敗を狙ってきた。救い主として葬りたいのがサタンの狙いです。公生涯の最初に荒野において誘惑を仕掛けたが失敗した。サタンは時が来るまで、じっとイエスの活動を監視していた。今、サタンは活動を再開し、ユダの隙を窺い、心を捕らえてしまった。

 

 ユダは、主イエスに仕えて伝道に打ち込んできた。その人が僅かな金のために主を売ることはまことに不合理です。同じようなことは私たちにも起こります。信仰に忠実に生きてきた人が、ある時、この世の富と栄光を選んでしまうことがある。まことに不思議です。サタンに心が奪われた時です。サタンに心が奪われると自由な判断、合理的、総合的な判断が出来なくなってしまう。「魔が差す」という言葉がある。堅実に何10年も働いてきた人が僅かな贈収賄で一切を失ってしまう。一瞬のことです。普通に考えたら、どうしてそんな割の合わないことをしたんだと、周囲の人は理解できない。ユダもそうでした。サタンに心を奪われた時、人としての総合的な判断が出来なくなり、破滅的な道を歩んでしまう。この箇所から、3つほどのことを学び取っていかねばならないと考えています。

 

 1つは、自分の信仰をいつも自己吟味することです。ユダのことを他人事として考えないことです。ユダは熱心に奉仕し伝道にも励んできた。ユダの裏切りは一朝一夕のものではなかったようです。ヨハネ福音書では、彼は会計を誤魔化していたと記している。小さな失敗、小さなミスが積み重なって、主イエスを引き渡すことになった。イエスを引き渡す約束した時にも、それが十字架に結びついているとは考えなかった。小さなことの積み重ねであった。サタンに自分の心を渡すことのないように、いつも主イエスのみ顔を仰ぎ、主のみ顔の前で生きることです。

 

 2つは、キリスト教会の不完全さを自覚することです。私たちは信仰の自己吟味を続けていかねばなりませんが、同時に、信徒の群れである教会は終末に至るまで不完全であることを引き受けねばならない。主が選び出した使徒の中にユダがいました。主イエスもこのことを受け止めておられました。地上の教会は決して完成されたものではなく、麦の中に毒麦がいつも混じっているのです。そして、主イエスは毒麦を抜くなと言われています。よい麦を誤って抜いてしまわないためです。

 

 3つ目は、一度失敗したら取り返しがつかないなどと考えないことです。ユダの失敗に続いて、この後さらに大きな失敗が起こります。ペトロの失敗です。ユダの失敗とペトロの失敗とどちらが重いと比較は出来ません。どちらも重い失敗です。しかし、ペトロは悔い改めました。ユダは悔い改めることなく突き進んでしまった。大きな分かれ目がここにある。信仰の人生はやり直しがきくことです。私たちもサタンに心を渡すような時がある。サタンの虜になるような時がある。途方に暮れてしまう。それでもやり直しが出来ます。やり直しの道がキリストによって備えられている。「私はもう駄目だ」と思ったところから、主が私たちの罪と失敗を担ってくださいます。十字架において赦しの恵みを備えていてくださいます。宗教改革者ルターの言葉を誤解を恐れずに申し上げます。「大胆に罪を犯せ。そして大胆に悔い改めよ」。ビクビクして生きるのではない。失敗したら、大胆に悔い改めて、キリストの十字架を仰いで赦しの恵みをいただくのです。