2016年1月24日礼拝説教 「 滅びない神のことば 」

                    2016年1月24日

聖書=ルカ福音書21章25-33節

滅びない神のことば

 

 主イエスが語られた終末の出来事です。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」。これらの言葉は注意しなければならない。主イエスは今日の科学的な言葉で事柄を語られたわけではない。旧約が記し、当時の人々が慣例的に用いていた言葉を使って世の終わりに当たって心すべきことを教えられたのです。世界は始まりがあり、終わりがあることは旧約聖書も明らかに記している。主イエスはその旧約聖書が記している言葉を用いて語っているのです。

 

 25-26節の言葉はすべて旧約からの引用です。引照付聖書をお持ちの方は註を見てください。これらの言葉は旧約からの引用です。旧約では、神の救済の大きな出来事には自然界の出来事が深く関わります。出エジプトの時、イスラエルの民が紅海を渡る時「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた…」。モーセがシナイ山で神の前に立つと「雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。…シナイ山は全山煙に包まれた」。神が臨在し、大きな救いの御業をなさる時、天体が揺れ動き、海がどよめき荒れ狂う自然現象を伴った。神の大きな御業がなされる時、神が造られた自然界も連動すると言っていい。

 

 人の子の再臨に際しても、「その時」自然界も、天地も揺れ動く。人の子の再臨に伴う自然界の現象の旧約的な表現と言っていい。ですから、世の終わりが近づいているかどうかは、私たちがこれら天体を見張り、自然現象を観察して得られるものではありません。終末とは人の子と言われるキリストの再臨の時です。その時はいつなのか、私たちには知らされていません。人の子である主イエスが再臨される時には、モーセに神が現れた時に大自然が揺れ動いたように、大自然が連動して揺れ動く。主イエスが語られたことは、そういうことです。

 

 人の子の再臨こそが終わりの時の中心です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。主イエスが再び、雲に乗って来られる。それを人々が見ると言われた。信仰者だけが見るのではない。世界の人々がみんな見ることになると言われます。イエスが最初に世に来られた時の姿と、もう一度来られる時の姿の違いが、ここにあります。最初に来られた時は、何の力も持たない赤子として、貧しい夫婦の間に生まれ飼い葉桶に寝かされました。特別に導かれた人たち以外には知る人はいませんでした。秘やかにおいでになりました。

 

 再臨の時は全く違います。「大いなる力と栄光を帯びて」、大自然が連動するようにして、神としての力と栄光のうちに来られます。秘やかにではなく、だれでも見ることが出来る「神としての公の到来」です。世界のすべてを裁かれる神として来られるのです。使徒信条に「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と記されていることです。

 

 その時、私たちは、私たちの歩いてきた道は間違っていなかったと悟るのです。それが解放の時なのです。私たちはこの世の多くの人と違う道を歩いてきた。この世の流れに逆らっているような歩みをしてきた。その結果、辛いことや悩みや葛藤もあった。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ書12:2)という御言葉に従って生きてきた。終末の時には、そのことが真理である。間違いではなかったことが証明され、一切の葛藤から解放されるのです。

 

 ですから、主イエスは「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」と言われるのです。終わりの時は、私たちの歩みが間違っていなかったことが公に証しされる時なのです。この終わりの時こそ、私たちの希望の時で身を起こして待ち望んで生きていくのです。

 

 終末について陥りやすい大きな誤りがある。終末などは、おとぎ話、SF小説のようなもの、非現実的なこととして聞き流してしまうことです。ノアの時も、ロトの時も、世の多くの人たちは滅びの時が来るという神の警告の言葉をあざけり、拒んでしまいました。平穏な日々が続くと、それが永遠に続くかのように錯覚し終末などあるものかと心をゆるめてしまう。しかし、キリスト教信仰は終末のあることを意識して歩む信仰なのです。

 

 主イエスは終末があることを冗談のように聞き流すことのないように「いちじくの木のたとえ」を語られたのです。木の姿から時の移り変わりが分かります。春になると芽吹いてき、しだいに葉が出て来ます。やがて花を咲かせ、実を実らせて、葉が落ちていきます。ある一つの段階が起こると、次の段階が必ず起こるのです。逆転はありません。迫害の時があり、エルサレムの神殿も滅亡した。今、私たちは異邦人の時代の中に置かれ、その時代が2000年も続いているが、ずっといつまでも続くのではない。葉が落ちる時は必ず来る。「夏が近い」、「神の国が近い」とは物理的な時間の長さではなく、確実であること、確かであることを教える言葉です。

 

 主イエスはこう言われます。「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。1つ1つの時に、時の課題があります。その時の課題が完了するまでは決して終わりは来ない。神の時はゆっくり進みます。それは罪人の悔い改めを待つからです。しかし、どんなにゆっくりでも終わる時が必ず来ます。主イエスの語られた終末に関わる言葉は決して滅びない。虚しくなりません。永遠だと思っている天と地も神の造られたものに過ぎない。始まりがあり、終わりがあるのです。キリスト教信仰は、終末があること、この世界に終わりがあることを悟って生きる信仰なのです。