2016年1月10日礼拝説教 「 命をかち取りなさい 」

                    2016年1月10日

聖書=ルカ福音書21章5-19節

命をかち取りなさい

 

 聖書は神の創造を語ります。神によって天と地が造られた。初めがあれば必ず終わりがあります。これが聖書の明確に語ることです。私たちキリスト者は終わりを見つめて生きるのです。そして、主イエスはどのようにして終わりを見つめて生きるのかということを教えておられるのです。

 

 「終わりを見つめて生きる」ために、主イエスが用いたのがエルサレム神殿の崩壊です。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」と記されている。神殿にはユダヤ内外から多くの人が集まってきていた。エルサレム神殿はヘロデ大王が何十年もかけて大改修工事をし、この工事が完成したばかりで大規模、壮麗な神殿になっていた。たくさんの金が使われて朝日を受けて金色に燦然と輝いていたと言われています。多くの人はこの神殿のすばらしさにうっとりと見とれていた。

 

 主イエスは「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われた。このすばらしい神殿ががれきの山になる日が来ると言われた。この時、そんなことを考える人はいなかった。この大建造物は永遠に残るのではないかと思う。しかし、主イエスはこの壮大な建造物ががれきの山になることを見通していた。事実、この時から40年後、紀元70年にローマ軍によって神殿は火の中で崩壊した。永遠に続くと思うものも一時的なものに過ぎない。

 

 主イエスの神殿崩壊の予告を聞くと、ユダヤ人聴衆は「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねた。ここにユダヤ人のすごさを見る。ユダヤ人の偉大さと言っていい。神殿の崩壊とか、終末を、しっかり受け止めている。「そんな馬鹿なことが」などと言わない。今あるものが永遠に続くなどとは思わない。主イエスの狙いは、この問いを引き出すためのものでした。ここで具体的に問われているのはエルサレム神殿の崩壊のことです。しかし、このあたりから主イエスの話は神殿という建物の話しではなくなる。エルサレム神殿の崩壊にこと寄せて、世の終わりについて話が進んでいく。

 

 主は、3つの注意を話された。1つは「惑わし」です。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と言われた。偽キリストが登場する。これを異端の指導者という宗教的な側面だけで考えてはならない。混乱し不安な時代に強力なリーダーシップを持つ人、困難な課題を一刀両断に解決する人が期待され、その期待を背負って強力なリーダーシップを持つ者が登場するが、ついて行ってはならない。2つは「戦争とか暴動が起こること」です。国家間の対立や民族の争いが起こる。今日、テロが起こり、各地で戦争が実際に起こっている。戦後70年、日本の国は平和を享受してきたが、今や日本も戦争が出来る国になろうとしている。昨年の安保法制の可決に終末の徴を見る思いがする。3つは大きな地震や飢饉、疫病などの自然災害と人災です。温暖化や原発事故のようなものが人間や動物の住む場所を奪っていく。しかし、主イエスは「おびえるな」と言われます。まだ終末ではない。「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言われた。

 

 主イエスは、偽キリストの登場、戦争や暴動、大地震などの災害が起こることを指摘し、しかし「惑わされるな、おびえるな」と言われた。実はこれらのことは日常的に起こっている。いつでも戦争が起こり、いつでも各地に大地震が起こる。いつでも偽キリストが登場する。これらは終末があることを自覚させるための神からの警告の徴なのです。これらに惑わされることなく、おびえることなく、きちんと物事を判断していかねばならない。それが地の塩・世の光であるキリスト者の使命なのです。

 

 これらの徴の前に、あるいは徴と共に、キリスト者には迫害がある。「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」。キリストの弟子たちは圧倒的に少数者です。少数者には少数者の悲哀がある。ネロ帝の時代、ローマに大火が起こった。その大火の原因、真相は分からない。しかし、ネロ帝は大火の原因を多神教のローマ人から憎まれていたキリスト教徒に押しつけた。不合理な社会全体の憎しみが少数者に押しつけられる。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。

 

 そのような迫害の時こそが「証しをする機会」です。唯一神を信じる故に捕らえられ、裁かれ、「中には殺される者もいる」。福音が宣べ伝えられていくところで、いつでも、どこでも迫害が起こる。私たちもこのことを覚悟しておく必要がある。その時、神は2つのことをしてくださいます。1つは「前もって弁明の準備をする必要がない」ことです。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」。取り越し苦労をする必要はない。聖霊がいつも一緒にいて、最も適切な応答が出来るように導いてくださるのです。

 

 2つは、神の守りです。「髪の毛の一本も決してなくならない」とは比喩です。「中には殺される者もいる」のです。肉体の命が失われることもある。しかし、神の前からは決して失われない。「決して」と訳された言葉は強い否定の言葉です。キリスト教の教理に「聖徒の堅持」「聖徒堅忍」の教えがあります。神が選んだ者を、神は握って離さないという聖書の真理です。このことを語られた後、主イエスは「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われた。「かち取る」と訳された言葉は「保ち続ける」という意味の言葉です。忍耐によって、神の前におけるいのち、救いの恵みを保ち続けなさいということです。先ず、神が耐え忍んで私たちを守ってくださる。それに応えて、私たちも耐え忍んで自分の魂の救いを保ち続けていくのです。これが終末を覚えて生きる私たちの歩みです。