2016年1月3日礼拝説教 「 希望の源である神」

                     2016年1月3日

聖書=ローマ書15章13節

希望の源である神

 

 今年の浜松教会の標語は「希望と喜びをもって主に仕える」です。「希望」です。なぜ、「希望」を、この年の教会の標語にしたのか。今年、教会員が真剣に後任の牧師招聘のために祈り取り組むことの希望です。正規の牧師を迎えて教会設立と会堂問題に取り組んでいく準備の年です。希望は緊張をもたらす。一致と希望をもってこの課題を担って行っていただきたい。

 

 しかし、「希望」という言葉に託している意味はそれだけのことではない。これからの日本の国、それを取り巻く世界の状況は激動の時代になっています。昨年、国会で集団的自衛権を中心にした安保関連法案が可決し、日本も戦争の出来る国へと変わりました。現在、多くの人は何も変わっていないかのように受け止めていますが、実は国の線路の転轍機がカチッと切り替わったと言っていい。振り返ってみたら、ああ、あそこで変わっていたという出来事なのです。韓国や中国に対する偏見が深まっています。フクシマ原発の事故で原子力発電が一旦停止したが何事もなかったかのように再稼働していく。戦後70年、国の在り方を規定してきた憲法も大きく変えられようとしています。70年は戦前に戻ろうとしてきた歩みであったのではないか。虚しさが突き上げてきます。

 

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り」。日本人は「諦め」の精神的伝統の中で育ってきた。心の中には平家物語や方丈記の「無常観」に共鳴するものを持っている。他ならぬ私自身の中にもそれを感じる。川の流れに身を委ねるように、諦めることの中で、無常を感じる中で身の平安を得ている。このような無常観は日本独自のものかと言えば、どうもそうでもない。聖書の中にも同じような無常観が語られている。コヘレトの言葉です。「(わたしは)大規模にことを起こし/…畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた」。ある人が大事業を起した。「しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」。すべての努力、すべての労苦が空の空、一切は空だったと記す。

 

 私たちの平和への努力、隣人に仕える奉仕、家族を支える努力、経済を担う営み、福音宣教の奉仕、ディアコニアの奉仕と努力が今、どれも空しく、風を追うようなものに思えてくる。戦後70年の歩みは何だったのか。こんなことを感じるのは、歳を取ったせいなのかなあ、と思い巡らす。

 

 しかし、私たちはキリスト者です。キリスト者は神を見上げて生きる人です。このことを思い出させてくれるのがローマ書15章13節なのです。「希望の源である神」と語ります。キリスト者は「希望の源である神」を見上げて生きる人なのです。諦めは実は無神論なのです。流れ行く水の動きしか見ていない。無神論は諦めという生き方しかできない。しかし、神を信じる者は希望を持つ。希望を持つとは神を信じる者の生き方なのです。

 

 新共同訳「希望の源である神」は意味を採ったいい翻訳です。漠然と「望む」、「期待を抱く」というのではない。確かな根拠に基づいている。それは神が「摂理の神」だからです。神は、創造の神であると共に、その造られた世界を摂理してくださる神なのです。摂理とは、組織神学的に言うと、保持と協同、神の支配です。神が造られたこの世界をしっかり支え守っていてくださる。私たち人間とも協同して、この世界を治めて完成へと導いてくださる神なのです。「希望の源である神」とは、この摂理の神を見上げることです。摂理の神を信じることが希望の根源なのです。

 

 ローマ書15章は、人類のきわめて困難な課題を取り上げます。1-6節は「強い者と強くない者」です。7-12節は「ユダヤ人と異邦人」を取り上げます。そしてパウロは7節で「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧めます。強者と弱者の関係は、これ人間の歴史の課題だと言っていい。能力のある人、富む人もいます。同時に悲哀を噛みしめる人、貧しい人もいます。国家でも富む国と貧しい国があり、そこに当然あつれきが生じます。「ユダヤ人と異邦人」の問題は、人種・民族の問題です。これも世界史の課題です。難民が生じ、これを排除しようとする人たちが出てきます。自民族と他民族の問題で今日、まさに混乱している。直ぐに解決が出来ない。世界は悩んでいるのです。

 

 パウロは「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧めますが、その解決の目処はなかなか立ちません。このパウロの勧めの言葉に導かれるようにして、多くの人がこれら2つの大きな課題を解決しようとして、何度も何度も努力してきました。しかし、未だに解決にはほど遠いと言っていい。同じように、平和に対する私たちの奉仕の業、ディアコニアの業、教会を建て上げるための伝道の業、これらが目に見える形で実を結ぶのは、ほど遠いだろうなあ、と言っていいでしょう。しかし、ここに求められるのが、生きて働いておられる摂理の神を信じる信仰です。

 

 パウロはこの個所で、これらの大きな困難な課題に取り組んでいく者たちへの祈りをもって閉じている。13節は、これらの困難な課題に取り組む者たちへの祝祷です。祝祷には2つの意味があります。1つは「宣言」です。神の祝福がここにあることの宣言です。もう1つは、やはり祈りです。祈りは神に向かいます。口語訳「どうか、望みの神が……」と、神に向かう祈りの言葉として訳しています。13節は、パウロの神への呼び掛け、神への祈りの言葉として理解する。希望の源である神が、人が互いに差別することなく、互いに受け入れあう社会を作ってくださる。礼拝を守り、教会を建て、聖霊の力によって平安と喜びを与えて下さるように、と祈る。神が聖霊の力によって私たちを用いてくださると、希望を持つのです。神の計画が途中で挫折することはありません。良き奉仕をもって、私たちの教会の課題が応えられることを望み見てまいりたい。