2015年12月27日礼拝説教 「 神の御前で生きる」

                   2015年12月27日

聖書=ルカ福音書21章1-4節

神の御前で生きる

 

 主イエスはまもなくこの地上を去って行かれます。主イエスの関心は残された弟子たちがどのように生きるかということです。どのような生き方がキリストの弟子としての生き方なのか。主イエスは具体的な1つの姿をもって示された。レプトン銅貨2枚を献げたやもめの姿です。主イエスの視線は神殿の献金の箱に注がれている。エルサレム神殿は男と女の出入りできる場所が違っていた。男性の庭と女性が入る婦人の庭があった。それぞれの庭に13の献金の箱が置かれていました。

 

 男性の庭に金持ちたちがやってきて、人目につくようにこれ見よがしに多額の献金を投げ入れている。多額の献金を捧げる人がいると、周囲の人たちがホォーと感嘆の声を上げたと言われている。主イエスはこのような献げ物に対して言われた。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」と。すべてを見抜かれる主イエスの目は少しも曇っていません。鋭さも失われていない。いつの時代でも貧富の差はある。富む者は豊かな中から何の痛みも伴わない献金が捧げられる。人はその金額の多さを賞賛する。しかし、それは見せるための献金、賞賛を得るための献げ物です。

 

 その時、婦人の庭に一人の女性がやって来た。貧しいやもめです。今日「やもめ」という言葉は死語になっている。夫を失った女性です。この時代、女性が働き手である夫を失うことはよほど資産が残されている場合を除いて路頭に迷う。女性の働き場などはない。ルツのように落ち穂拾いするしかないような困難な生活に陥る。しかし、表面的にはこの女性がやもめであるとは誰にも分からない。ただ、主イエスが見て取ってくださった。主イエスは私たちの生活の内情をしっかり見て取ってくださるお方です。

 

 この女性はひっそりと神に祈りを捧げ、礼拝し、誰にも気付かれないようにソッと献げ物を献金の箱に入れました。彼女がどれだけ捧げたのか、誰にも分からなかったでしょう。人の関心も引きません。そして来た時と同じようにひっそりと帰って行きました。しかし、主イエスは彼女の献げ物をしっかり見て取られました。「貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見」られた。レプトンというのは最小の銅貨で1レプトンは1デナリオンの128分の1です。換算は難しいのですが1レプトンは数十円、大きく見積もって50円玉と言っていい。それが2枚です。神殿で、このような少額の献金をする人は珍しかった。誰の注目も引きません。

 

 しかし、主イエスは弟子たちにこの女性の姿を指し示し、はっきり教えられた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。この女性の献金は、時に誤解される。献金は額じゃないんだと言って申し訳程度のものを献げることです。いわゆるけちった献金をすることを勧める物語ではない。

 

 この献金から、主イエスが弟子たちに教えたことは2つあります。1つは、主イエスは確かに献げられた献金の金額を見るのではないということです。多くの人の関心は金額に注意が行きます。金額が多いか、少ないかに視線が行ってしまいます。しかし、主イエスは献げられた金額ではなく、献げる人の想いと姿勢を見るお方であることです。私たちはキリストの弟子として、このことをしっかりと胸に刻んでおかねばならない。

 

 第2に、主イエスが教えたことは彼女が捧げた献金は彼女の献身であったことです。これこそ、この献金の意味なのです。礼拝する者の心の中を見られる主イエスは献げられたレプトン銅貨の中に込められている深い想いを決して見逃しません。レプトン銅貨2枚が彼女の持てる生活費のすべてであると主イエスは見てくださった。献げられた金額ではなく、献げた彼女の心の中にある深い想いを汲み取ってくださったのです。

 

 礼拝における献金は自由です。レプトン銅貨2枚を献げずに持ち帰ることもできた。1枚だけ献げることもできた。十分の一献金と違い、礼拝における献金は全く自由です。しかし、彼女は生活費のすべてを献げた。これからどう生活していくか。心配したらきりがない。何故、こんなことが出来たのか。それは彼女の信仰から出た。神への感謝と神への信頼から出たことです。やもめになってからも、神は彼女をしっかり守り続けてくださった。逆境の中においてもなお自分を支え続けてくださる神の恵みを経験していた。自分の生活の中で生きて働いておられる神の恵みを経験していた。その恵みの神に対する感謝から持てるすべてを献げたのです。

 

 さて、最も大切なことをお話ししなければならない。実は、ここは献金の教えではない。主イエスは献金にこと寄せてキリストを信じる弟子たちの生き方を教えられたのです。献金のお手本というだけではない。主イエスがここで示しているのは、生ける神の前に自分のすべてを差し出して生きる一人の人間の生き方なのです。この貧しい一人の女性は、ただ神の御前に立ち、神のみ顔だけを仰いで、神に自分の生きる道を委ねる神信頼を持って生きた信仰者の姿なのです。これが、これからの弟子たちの生き方なのだと示された。「生活費」と訳されたギリシャ語・ビオス、「いのち」と訳すべき言葉です。献金は差し出したけれど、自分のいのちは手元に置いておくというのではない。いのちそのもの、自分そのものを全部神に差し出した。それが「生活費を全部入れた」と言われたことなのです。

 

 彼女は生ける神の御手に、自分のすべて・いのちをも委ねて生きた。この姿は、父なる神にご自分のいのち、すべてを委ねて十字架の上で死なれた主イエスのお姿と重なってくるのです。貧しい人の子として父なる神に信頼して歩まれたお方の姿に、この女性の姿がぴたっと合わさっている。キリスト者の歩みは、主イエスが歩まれた歩みに付き随っていくのです。生ける神の御手に、自分のいのち、自分の生活、生涯を委ねて生きることを祈り求めてまいりたい。それがキリストを信じる者の歩む道なのです。