2015年11月29日礼拝説教 「 信頼して待つ」

 2015年11月29日

アドベント第1

聖書=ハバクク書2章1-4節

信頼して待つ

 

 ハバククは「祈りの預言者」と呼ばれ、祈りの中で神への信仰に目覚めた預言者です。紀元前7世紀頃の人です。この時代、南王国ユダの人々はおびえて生きていた。世界最強の軍事力を持つバビロニア帝国の軍隊が近づいていた。ユダの人々はバビロニアの軍隊のラッパの音、軍靴の響きが今にも聞こえてくるような恐れの中で生活していた。今日来るか、明日になるか。バビロニアの強大な軍隊に勝つことなど考えられない。戦いに負けた後、どんな生活が待っているのか。捕虜として侮辱され、捕らえられ、辱められ、そして殺される。そういう緊迫した状況中でハバククは祈った。

 

 「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。ハバククは今、歩哨として物見櫓の上に立っている。物見櫓の上からは、人々がうろたえて、右往左往している様が見える。恐怖の時、人は落ち着いていられない。預言者は物見櫓の上で、神に祈った。その祈りはイスラエルの民の救いでした。救いはあるのか。助けはあるのか。生きる道があるのか。ハバククは民の苦悩を受け止めて神に祈り訴えた。激しく神に問い、ジッと神の答えを待った。神は必ず応えてくださると信じて待ったのです。

 

 ハバククの祈りに神は応えてくださいました。神は語られた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」。

 

 「幻」とは神のメッセージです。2つのメッセージが語られた。1つは書き板を用意しろです。今日ですと「広告板」です。大きな大きな書き板、広告板を用意しろ。だれでも、遠くからでも読めるように、うろたえ走りまわる人でも読めるように大きな広告板を用意しろ、と。2つは、その広告板にこう書けと言われた。「神は終わりの時、救いの時を定めている。その時は、必ず来る、遅れることはない。待っておれ。この神のことばに信頼するならば、生きる」と。このことばを大きな広告板を用意して書け。書いてみんなに読めるようにしろ、と言われた。「終わりの時」とは、神が定めた救済の時のことです。神はイスラエルの民の救いを計画している。その時を忍耐して待て、と言われた。この言葉に信頼するならば、その人は生きるのだと言われたのです。

 

 待降節とは、主イエスのご降誕を待つ季節、救い主の誕生に向かって心を備えする準備の時期です。私たちの教会では一ケ月前からアドベントクランツを飾ります。週毎にローソクに一本づつ火を灯して4本灯された時にクリスマスが参ります。その間に、教会でも、家庭でも、個人でも、クリスマスの心備えをして参ります。

 

 ハバククは「終わりはもう定められている」と言います。その時に向かって歴史は急いでいる。「たとえ遅くなっても、待っておれ」と。ハバククの語る「定められた時」「終わりの時」とは、メシア・キリストの到来です。救いの時が来るという確かな約束が語られ、そのことばの通り、やがて神の御子は人となり、十字架で贖いをしてくださいました。私たちはすでにキリスト以後におります。もうすでに救われている。

 

 しかし、この時に覚えるべき一人の人がいます。アブラハムです。神はアブラハムを選んで1つの約束を与えた。子孫の約束です。アブラハムから多くの子孫が出て、全ての国民の祝福の基となるという約束です。どんなに人の罪が深くなっても、世の人を救う神の愛がアブラハムに与えた誓いという形で示された。ところがアブラハムは、この約束の実現を見ることは出来ませんでした。何十年も待ち続けてやっとイサクが与えられましたが、多くの子孫も救い主も見ることは出来ません。自分の目で神の誓いの実現を見ることの出来なかったアブラハムは、その希望を次の世代に託します。次の世代はまた次ぎの世代に託します。そのようにして、アブラハムから始まってヨセフまで1800年の年月が流れることになりました。

 

 旧約の人々は「待ち続けた」。旧約を貫いているのは「待つ」ことです。その中でハバククは神の救いの時は遅くならない、待っていろと語ったのです。私たちも待つ人々です。救いの完成は終わりの時を待たねばなりません。ハバククの預言はまだ完全には成就してはいない。私たちは神の子ですが、神の子としてのすばらしさ、その果実を味わうのは終わりの時です。私たちはこの世界に使命を持って送り出されていますが、その働きが報いられるのは終わりの時です。キリスト者も、やがて来る終わりの時を待つのです。今、世界はハバククの生きた時代と同じです。テロが起こり、報復が連鎖して恐怖が世界を覆っています。これから日本は、世界はどうなっていくのか。人の心はささくれ立ち、憎しみが増大している。この時代の中で、希望をもって終わりの時を待つ者とされているのです。

 

 信仰とは「待つこと」です。私たちの日常生活を見ても「待つことは」大きな意味を持っている。今朝、私たちは二人の子らに幼児洗礼を授けました。この洗礼をおいて、彼らの信仰の成長を望み待つのです。母親は生まれた子が成長し成人する日を待ち望みます。命の成熟・成長のためには待たねばなりません。あせったり無理をしたら、その命はゆがみます。時をかけて待たねばならない。信仰のいのちも同じです。幼い二人の中に信仰が芽生えて成長し、やがて主に仕えるしもべとなることを祈って待ちましょう。神の言葉に信頼して待つことが信仰そのもので、この信仰によって人は生きるのだと、ハバククは語ります。神の約束の言葉を信じて従う者はその信仰によって生きる。真っ暗闇の中でも、この神の約束の言葉に信頼して、キリストが再び来られる時を待つ者として生きて参りたい。