2015年11月15日礼拝説教 「 ダビデの子、ダビデの主 」

                           2015年11月15日

聖書=ルカ福音書20章41-44節

ダビデの子、ダビデの主

 

 主イエスがファリサイ派やサドカイ派の人々に尋ねています。この質問を通して、主イエス自身がご自分をどのように考え、理解しておられたかが分かります。イエスご自身のメシア意識、キリストとしての自覚が語られているところです。主イエスは尋ねます。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と。これはメシア・キリストの出自を尋ねているのです。当時の人々の中には素朴なメシア信仰があった。救い主・メシアはダビデの子孫から生まれるという信仰です。これは旧約において預言されていることでした。ダビデはダビデ王朝の創始者で輝かしい理想の王と考えられていた。このダビデ王の子孫から救い主は生まれると信じられていた。これが「ダビデの子としてのメシア」の信仰です。

 

 主イエスご自身、「ダビデの子」という呼び方を受け入れている。一人の盲人の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」との叫びを受け止めて応えておられます。マタイ福音書の冒頭には「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」が記されている。イエスはダビデと同じユダ族の出身で系図の通りに確かにダビデの子孫です。「ダビデの子」の呼び方自体に問題があるのではなく、この呼び方の中に盛られている内容だと言って良い。メシアはダビデの子という言葉の中でローマ帝国の軍事的支配を排してユダヤを解放し、イスラエル王国を回復するダビデ王のような救い主を期待し待望していた。主イエスの元にゼベダイの子らの母親がきて「一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(マタイ福音書20:21)と息子たちの出世を願ったのも、このダビデの子による政治的な王国の復興という考えが背景にあったからです。

 

 しかし、主イエスはまもなく十字架に架かります。十字架を担うキリストです。一般の民衆、さらに弟子たちの中にさえあった誤ったメシア理解を正しておかねばなりません。「ダビデの子」という言葉で当時の多くの人の中にあったメシア信仰を打ち破ろうとしておられるのです。

 

 主イエスはダビデ自身が作った詩篇110篇を引用して、何故、ダビデ自身がやがて後に生まれてくるメシア・キリストを指して「わたしの主」と呼ぶのかと尋ねた。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい』」。この文章の最初の「主」は父なる神、主なる神です。次の「わたしの主にお告げになった」の「わたし」はダビデ自身です。そのダビデが「わたしの主」と呼んでいるのがメシア・キリストを指しています。先祖のダビデが、どうしてズーと後に生まれてくる自分の子孫を指して「わたしの主」と呼んだのかという問いです。この場合の「主」とは主なる神・ヤハウェ、あるいはメシアのことです。ダビデは自分の子孫から生まれる者を指して「主」と呼んでいる。どうしたことだ、何故だ、と問われた。ダビデが主と呼んで礼拝するお方は実は神なる救い主なのではないかと問われたのです。これに対して律法学者たちは答えられません。

 

 主イエスが詩篇110編1節を語ると、当時の人たちは後に続く言葉も思い浮かべることが出来た。「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)』」。この言葉も新約で何度も引用されるメルキゼデク預言です。ここで「あなたはとこしえの祭司」という「あなた」もダビデの語る「わたしの主」です。ダビデが主と呼ぶお方は、祭司として神と民との間に立って執り成しをする仲保者だということです。神と人の間を執り成し、和解の務めを果たしてくださるメシア・キリストが描かれているのです。

 

 主イエスはこの議論によって、救い主・キリストは単純にダビデの子というだけではないことを示そうとされた。キリストによる救いは決してダビデ王国の再建のような政治的な解決あるいは物質的、経済的な繁栄によるものではない。主イエスはわたしの国はこの世のものではない、また剣やパンによって人を救うのではないと繰り返し語られました。ダビデが主とあがめるお方は、主なる神ヤハウェであり、神と民との間に立って執り成しと和解の務めを果たしてくださるキリストなのです。これが、主イエスが語ろうとしているメシア理解なのです。ダビデが主として礼拝し、人を神と和解させ、世界のすべての人を罪から解放する救い主です。ですから、「すべての民に与えられる大きなよろこび」なのです。

 

 主イエスは、さらに終末的な存在であることを示されました。それは「神の右に座す救い主」です。主イエスは詩編110編を引用して「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と言います。「あなたの敵をあなたの足台とするとき」とは、まさに終末を意味しています。神が勝利する終末の時まで、救い主・キリストは神の右に座すお方であることです。栄光と勝利の主なのです。このダビデの子は十字架の後、復活し、天に上げられ神の右に座しておられるお方です。使徒信条を思いだしていただきたい。主は十字架で死んだ後、よみがえり、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白されます。「神の右の座に座す」とは、罪の贖いを完成して、父なる神と共に支配を担い、教会のために執り成しをしておられるということです。メルキデゼクに等しい大祭司です。主イエス・キリストは終末まで、私たち一人ひとりの救いの完成のために祈っておられます。それが「神の右の座に座す」お方です。

 

 私たちがイエス・キリストを信じるとは、ユダヤ王国を再興する解放者を信じるのではない。すべての罪人の贖い主、十字架に死んでよみがえり、今、天にいます栄光のキリストを信じることです。ここに、ダビデが主と呼んで礼拝したお方を信じ礼拝するすばらしさが出てくるのです。主イエスは、詩篇110編を通して、このような救い主・キリスト像を示して、「あなたは、キリストをどう思うか。どう受け止めるか」と問いかけておられます。これは今日の私たちに対する問いかけです。

 

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コメント: 1
  • #1

    閲覧者 (水曜日, 05 10月 2016 10:07)

    拝見してわからないことがあったので質問させて下さい。「この場合の『主』とは主なる神・ヤハウェ、あるいはメシアのことです。」とありますが、主イエスが「父」とか「(わが)神」と呼んだおかたは旧約聖書でイスラエルの神といわれている「ヤハウェ」ですか?人によっては「ヤハウェ」をイエス・キリストと同一視したり、「ヤハウェ」を三位一体の神と同一視する場合がありますが、これらは聖書の誤解でしょうか?