2015年11月8日礼拝説教 「 生きている者の神 」

                             2015年11月8日

聖書=ルカ福音書20章27-40節

生きている者の神


 私たちが今、ここに集っているのは生けるまことの神を礼拝するためです。キリストを信じて神との交わりに生きる。これが礼拝です。礼拝の中で、私たちは神に触れ、神の命にあずかり、永遠の命に生かされるのです。

 

 ヘロデ党とファリサイ派の人たちの納税論争が失敗したので、今度は我々の出番だとサドカイ派の人々が登場します。サドカイ派は祭司階級でローマの権力と結んだ富裕階級の人々です。現実主義的、世俗主義的なグループです。表面的にはユダヤ教徒ですが超自然的なものを認めません。天使や復活などは信じなかった。サドカイ派の人たちの気持ちの中には、今日の合理主義者が宗教に対して持つ一種の軽蔑感、優越感があった。

 

 サドカイ派の人たちはイエスのところに来て、からかいに近い言葉で質問します。「モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」。申命記25章に記されているレビレート婚と呼ばれるものです。子供なしに死んだ人の家を絶やさないため、その人の近親の順に未亡人と結婚し、生まれた最初の子を死んだ人の跡継ぎとするという律法です。これは跡継ぎだけのことでなく、夫をなくした女性の救済でもあった。レビレート婚はルツ記にも出てくるが、家を絶やさないことと、女性の救済であった。サドカイ派がこの律法の規定を持ち出したのは律法が持つ欠陥と復活信仰の馬鹿馬鹿しさとを論証して、イエスやイエスを支持する民衆の非合理性を愚弄することが狙いだったようです。

 

 7人の兄弟がいた。長男が子なしに妻を残して死んでしまった。そこで、次男から始まって6人の弟たちが律法の規定に従って兄の妻と結婚したが、どの兄弟も子を生ますことなく死んでしまった。もし万一、復活というものがあるとすれば、天国で女性は一体だれの妻となるのかという議論です。この議論を通して、復活などあるはずがないと論証しようとしている。

 

 主イエスは、このサドカイ派の論議に対して、彼らの次の世についての理解の根本的な間違いを指摘した。この世のあり方が次の世でも続くのではない。彼らは聖書がまったく分かっていないと言われた。マタイ福音書では、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」との主の言葉を残しています。聖書理解について根本的な間違いがある。主イエスは「この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と語られます。サドカイ派は復活をこの地上の、この世界の延長線で考えている。しかし、主イエスは、次の世である天国の生活はこの地上の生活とはまったく違うのだと言われます。

 

 「めとったり、嫁いだりする」ことは、この地上の生活の枠組みです。神が天と地とを造られた時、人間をこのような枠組みで造られた。人はある家庭の中に生まれ、成長し、学び、愛し、あるいは憎み、悲しみ、喜び、そして、また家庭を造り、子を生み、育て、やがて老いて病み、死んでいく。このような枠組みの中で、私たちは信仰をもって神を仰ぎ、神に仕えて生活するのです。家族は地上の生活の中では大切なものです。家族の中で守られていくのです。同時に家族関係は繁雑なものです。この家族関係の中に罪が入っているために人は苦悩する。愛すると同時に憎しみも増す。多くの人は心身共に、家族の問題に疲れ果て、重荷になり、傷つきます。時には、このような家族関係に恵まれないで生まれてくる人もいます。

 

  主イエスは「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」。天国では、結婚も出産も病いも老も死ぬこともありません。家族の関係が清められて、一人一人が直接キリストと神に結ばれ、神の愛に包まれて永遠の祝福の中に生きるのです。全く変えられるのです。天使のように新しい霊の体に変えられて神に仕えるのです。

 

 主は続けて言われた。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。出エジプト記3章6節の引用です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という文章が、どうして復活の証言と言えるのか。ユダヤ教ではこの聖句から復活を論証したことはなかった。主イエスに始まった復活論証、永遠の命の論証と言ってよい。この論証が律法学者をして「先生、立派なお答えです」とうならせたのです。

 

 「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形で記されず、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されている。主イエスはここに注目された。引用文は「である」が省略されている。旧約本文には「である」とはっきり訳出している。「である」という語はヘブライ語「ハーヤー」で、英語のBe動詞、現在形に相当します。「存在する。存在し続ける」です。歴史の中で、アブラハムを選び、彼を交わりに入れて下さった神は、一時期にアブラハムの神であっただけでなく、アブラハムの神であり続けている。神が永遠である。その永遠の神との交わりに入れられたアブラハムもイサクもヤコブも、神が永遠であるように永遠に生きているのだという論証です。

 

 肉体的な存在としてのアブラハムはもう死んでいる。しかし、主は永遠の神の前ではアブラハムは今も変わらずに生きていると言われた。復活は終わりの時によみがえるだけのことではなく、本質は永遠の命が与えられることです。この永遠の命に新しい体が備えられるのです。永遠の命こそ復活の本質です。そして、この永遠の命は神との交わりに入れられた者は神の前ではその関係は変わらない。神は私の神であり続けて下さいます。