2015年11月1日
聖書=ルカ福音書20章20-26節
神のものは神に返せ
エルサレム入城後の主イエスの振舞い、特に神殿で商売していた人たちを追い払った出来事は神殿を管理しているサンヘドリンの議員たちにとって存在が問われる事件でした。代表を送って問責したが、見事に肩すかしされてしまった。彼らはメンツを潰されて怒り狂う。そこで「回し者」、巧妙に議論が出来る人たちを使って「言葉の罠」に嵌めようとした。神殿当局者たちが恐れていたのは民衆です。民衆はイエスを預言者と見ていた。この民衆がイエスに失望するか、逆に総督に引き渡すことが出来たらいい。
この時代、ユダヤ人は2重に税金を課せられていた。1つは10分の1税です。ユダヤ人の伝統的な税、神殿システムを支えていくためのものです。2つがローマ皇帝に納める人頭税でした。ローマ皇帝への納税を巡ってユダヤ人の中に2つの理解があった。1つはファリサイ派の理解です。ファリサイ派はユダヤ教保守派で政治的には反ローマです。2つはヘロデ党で親ローマです。ヘロデ一家に親しいヘロデ王家支持グループです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスはローマの徴税の最高責任者で、ヘロデ党はローマへの納税支持です。それに対してファリサイ派は現実にはやむなく税金を納めてはいるが、自分たちは異邦人の国家に奉仕したり、ローマへの納税の義務は原理的にはないと考えていた。いつもは対立している人たちが手を組んでイエスを罠に嵌めるために一緒にやってきた。
彼らは見事に論争を展開します。誉め上げるのです。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」。この人にはこう、あの人にはああと、人によって言い換えることもできなくなる。誉め言葉によって、イエスを言い逃れの出来ない道に追い込んで、彼らはズバリ質問します。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。
人頭税は男子は14歳、女子は12歳になると納めなければならない。この税金を納めることが律法に照らして適法・合法か、否か、という問いです。実際的な質問ではなく律法の問題として尋ねた。ここで主イエスが「適法・合法」と言えば、反ローマの心情を持つ民衆の失望を買うことになる。「違法」と言えば、ローマに対する反逆者として総督に訴える口実ができる。主イエスは適法とも違法とも答えられない立場におかれた。
主イエスは彼らのたくらみを見抜いて「デナリオン銀貨を見せなさい」と言う。デナリオン銀貨はローマの貨幣で、カイザルへの税金はこの貨幣で納めなければならなかった。彼らは持ってきて、イエスに差し出します。すると主イエスはそれを見て「そこには、だれの肖像と銘があるか」と尋ねます。デナリオン銀貨の表には月桂樹の花で囲まれた皇帝の顔が刻まれ、その周囲には皇帝の名前と称号がラテン語で記されていた。彼らはその肖像と記号を読み取って「皇帝のものです」と答えざるを得なかった。
主イエスは、この確認の上に立って「それならば、皇帝のものは皇帝に」と言われた。主イエスのこの言葉は、どのような意味を持っているのか。国家の権力を認め、それに従うことです。皇帝に税金を納めることは皇帝の政治的な秩序を肯定することです。主イエスは皇帝に税金を納めることによって国家の権威に従うことを教えておられると言っていい。例え、武力によるローマ皇帝の専制王権であろうと、皇帝によって遣わされた総督の権威であろうと、あるいは日本の選挙によって選ばれた政府の権力であろうと、税金を納めて従うことを、主イエスは求めておられるのです。
主イエスのこのお言葉に立って、この問題について考え抜いたのが使徒パウロでした。ローマ書13章1-2節「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」。「上に立つ権威」とは、世俗の、この世の権威です。上に立つ者が神を信じているか、いないか、に係わり無く、上に立つ権威に従うのです。その理由は「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」ということです。主イエスはヘロデ党の無神論的立場と同じ立場で語られたのはない。全ての権威の背後にある神の摂理とご計画を信じる信仰のゆえの理解なのです。神は全てを支配しておられますが、一般恩寵の領域では国家的為政者を用いて治められます。国の為政者も神のしもべなのです。
主イエスは続けてすぐに「神のものは神に返しなさい」と言われました。「神のもの」とは何か。デナリオン銀貨に皇帝の刻印が押されていたのと同じように、実は「神のもの」にも、これは神のものだという神の主権が刻印されているのです。人間にはアダムの時以来、神のものとしての刻印が押されている。それが「神に似せて作られた」神の形です。人は神の形が刻み込まれた存在です。人間であること、人格、良心を持つ存在です。皇帝にはデナリオン銀貨を納めるという形でのこの地上における服従を返せば良いのですが、神に対しては「わたし」という人格そのもの、人間そのものをお返ししなければならないのです。これが悔い改めであり、信仰であり、良心の服従なのです。人間存在全体のあり方の問題です。
主イエスは、デナリオン銀貨を支払うことで皇帝の秩序を認め、この世の権威に対して従うことを教えます。しかし、「神のものは神に」と言われたお言葉で、この世の権威になにもかも従うのではない。この世のどのような権威も踏み込むことの出来ない領域、神の領域があることを示されたのです。私たちの国は自由な良心に従って生きることの難しい国ですが、キリストを信じる者の最大の使命は、困難な中にも一人一人が人格的な判断をもって良心に従って生きることです。それが「神のものは神に返す」ことです。私たちは神のものだと示すことがキリスト者の大切な使命です。