2015年10月18日礼拝説教 「 神に会う備えをしなさい 」

                          2015年10月18日

聖書=ヨハネ福音書14章1-7節

神に会う備えをしなさい

 

 人生の一番の大事についてお話ししたい。人生の一番の大事とは死のことです。これについては信者も未信者もありません。あなたは、この死に対して用意が出来ていますか、ということです。死に対する用意というと「終活」が語られている。何が問題になっているのか。終活のためのパンフレットも出ている。遺産争いがないように遺言を書く、葬儀費用のため保険を掛けておく、墓地の用意をするなど。こんなことは終活でも何でもない。この世の生活の一部分です。ある人は「終活なんて止めなさい」と本を書いています。その通りだと思う。今日は本当の終活をお話ししたい。

 

 説教題を「神に会う備えをしなさい」とした。これが本当の終活、人生の終わりに対する備えです。聖書は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ書9:27)と記るす。アマデウス・モーツァルトの言葉を紹介したい。彼が31歳の時に父親に宛てた手紙です。「はっきり言って、死は確かに人生の最終の目的なので、数年来私は、人生の最良の友である死に親しむことを、自分の務めだと思っています。そのためか、私はこの友・死のことを思い出しても、別に怖くはなく、むしろ大きな慰めと安らぎを覚えているのです」。これはアルフォンス・デーケンという人の本からの孫引きです。アルフォンス・デーケン師はカトリック教会の神父で「死生学」を教えている方です。

 

 アマデウス・モーツァルトと言うと、神童、天才、女性にもてた音楽家という程度の理解しかありませんでしたが、31歳でこのように死を見つめて、死についての理解をしていたとは知りませんでした。もっとも彼は35歳という若さで死んでいるから、31歳は彼にとっては晩年なのです。彼は死の4年前から、自分の人生の最終目的として死を見つめ、死を人生における最良の友と受け止めている。彼のこの言葉を知って以来、彼の甘さを持った音楽を聴く時に、彼の見つめていたものを覚えて聞き取ることが必要なのだと思うようになりました。

 

 私たちも人生の最終目的として死を受け止めていかねばならない。死の備えをしていかねばならない。信仰は、この一点にかかっているのです。人生、60年、70年生きて大抵のことは経験してきた。けれど、死は別です。まだ経験していない。死んでどうなるのか。最大の不安です。「あなたはガンですよ」と告知を受けた時から、それを受容するまでに幾つかの段階があるようです。多くの人は最初取り乱す。自暴自棄になり周囲の人にあたり散らかす。しかし、その時期が過ぎると、しだいに受け入れが始まる。あきらめと言っていいでしょう。身辺を整理したり、人に優しくなる。そうなっても根本的な不安が取り除かれたわけではない。時に激しく感情の起伏が現れる。人間はまことに弱い存在です。

 

 このような私たちに、主イエスは「心を騒がせるな」と言われます。死を自覚する時、死を感じ取る時、いろいろな思いがわき起こって、心がバラバラになり安定を失う。主イエスは、このような私たちに心の安定を回復させてくださいます。それが「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」です。弟子たちは信仰を持っている。何故、改めて「神を信じなさい」と信仰が求められたのか。不安に襲われる時、信仰の原点を確認する必要があるからです。信仰の原点に立ち帰るのでなければ解決はない。信仰こそ、私たちが死に際して不安を覚える心を立ち直らせるのです。

 

 信仰がなぜ大切なのか。それは主イエスが永遠の居場所を用意し確保してくださるからです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。これこそ真の福音です。「住む所」と訳された語は、英語では「マンション」と訳しているが豪華マンションなどは貧しく疲れた旅人は入れない。「住む所」とは「居場所」のことです。人間は本当の居場所を求めているのではないか。なかなか居場所が見つからない。家庭にも学校にも居場所がない。昔は「女は三界に家なし」と言われ、女性は安住の地を持たなかった。今日、私たちはどこに居場所を見つけているか。神を信じる者は神の元に居場所がある。神が父として永遠の居場所を用意していてくださる。主イエスが教えておられることは、神を父と信じる者には,神の元に本当の住まい・ホッとくつろぐことの出来る居場所が与えられるということです。

 

 居場所である父の家に行く道についてが、トマスとの問答の中で主イエスは語られています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。イエス・キリストご自身が「わたしが道だ」と言われました。キリストは、旧約のモーセのような道案内をする人ではありません。キリストは道そのものです。昔から多くの宗教について、「分け上るふもとの道は違えども、同じ高根の月を見るかな」と言って宗教が違っても極めるところは同じだと言われてきた。しかし、主イエスは「わたしの父の家」、私たちの居場所に行く道は多くはないと言われた。私たちは他の宗教を軽蔑したり無視してはなりません。しかし、神の御許に行く道は、どれでもいいですよと言うことはできない。神は1人であり、その神に至る道も一つなのです。イエス・キリストというこの道以外ないのです。神はイエス・キリストを遣わして、このお方を通って、御自分の所に来るようにと定められたのです。

 

 もう一つ大切なことをお話しして終わります。知らない町へ行って道案内を求めます。案内人が「私が一緒に行って案内します」と案内してくれるならばもう迷うことはありません。その人の後に信頼してついて行けばよい。主イエスが「わたしが道である」と言われたことは、そういうことです。主イエスが手を伸べて、私たちの手を握って導いてくださいます。私と一緒に歩こう。私についておいで、と言って間違いなく父なる神の御許、私たちの居場所に導いてくださいます。主イエスと共に住む永遠の住まい、居場所が確保されていることを確信して信仰の生活を励むのです。