2015年10月4日礼拝説教 「 神からの権威 」

                           2015年10月4日

聖書=ルカ福音書20章1-8節

神からの権威

 

 「いわゆる宮清め」がなされた翌日、主イエスは「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられ」ました。そこへ神殿の当局者たちがやって来ました。この人たちは個人的な興味で来たのではなく神殿を管理する当局者としてやって来た。神殿を管理する最高機関はサンヘドリンと呼ばれていた70人議会でした。主イエスのところに来た人たちはサンヘドリン議会から派遣された公的な使節でした。彼らの質問、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」という言葉は、神殿当局としての公的な質問の言葉です。

 

 「このようなこと」とは、前日、神殿の境内で犠牲の動物を売っていた商人を追い出したことと、今も神殿の境内で多くの人に教えていることを指しています。議会には神殿の管理が委ねられていますから、神殿の中でこれだけのことを議会の許可なしに行ったのですから、当然弁明を要求してきた。あなたは、どうして神殿の中で商売人を追い出したり、教えることができるのかと詰問した。誰に許可をもらったのだということです。

 

 サンヘドリン議会からの詰問に対して、主イエスは逆に質問を返されました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と。洗礼者ヨハネの洗礼の権威について問い返された。洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を施し、多くの人が集まっていた。主イエスもヨハネから洗礼を受けられた。この洗礼者ヨハネのことを言われて、神殿当局者たちはジレンマに陥ってしまった。洗礼者ヨハネの洗礼活動はユダヤ教当局から許可を得たものではない。ヨハネもユダヤ教の正式なラビでもなかった。しかし、ユダヤ教当局者は力ずくでヨハネの活動を阻止したことはなく、黙認し放置していた。サンヘドリン議会はユダヤ教と神殿を管理するものとして問われたら答える義務がある。

 

 彼らの議論を読むとジレンマがよく分かります。彼らの不信仰と民衆の目を恐れる当局者の姿がよく表れている。民衆は洗礼者ヨハネを神からの人、預言者だと信じている。ユダヤ教当局者が、彼は神からの者ではないと語ると民衆の支持を失ってしまう。と言って、ヨハネが預言者であったと認めれば、ヨハネの言葉を受け入れず、彼に従わなかったのは何故か、と問われる。さらに、時の王ヘロデ・アンティパスによって捕えられ、殺されたのを放置していたから、その責任をも問われます。神殿当局者としては「どこからか、分からない」と言うよりほかなかったのです。

 

 この答えに対して、主イエスも「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われた。神殿で商売人を追い出したのは神殿礼拝の終わりを告げることでした。また、神殿で自由に福音を告げることは、神の自由、神の恵みの出来事です。主の御業は神殿当局者によってお許しいただいてのものでは決してありません。神からです。

 

 ここから今日、私たちは何を学ぶのか。1つは、信仰の事柄を人間の利害によって狂わせてはならないことです。信仰の問題は人間にとって重大な問題、良心に関わる事柄です。良心に関わることに利害関係を絡ませるととんでもないことになります。議会から遣わされた人の中にも、洗礼者ヨハネがした洗礼運動は「天からのものだ」と認める可能性もある意見も出ています。しかし、彼らはイエスとの論争の駆け引きから、せっかく良心的に芽生えた可能性を闇に葬ってしまった。自分たちの立場、メンツ、いきがかり、損得勘定のようなもので、信仰の事柄、良心を狂わせてしまうと大変なことになります。信仰は良心の問題です。それを利害や損得などによって曲げてしまうと、取り返しのつかないことになるのです。

 

 第2に、どんな人間的な権威にもよらない権威があることです。日本人はたいへん権威に弱い。上役の権威、社長の権威、首相や天皇の権威などいろいろな権威があります。けれど覚えるべきことは、どんな人間的な権威にも依存しない権威があることです。それが神からの権威です。主イエスが神殿の境内で商売人を追い出し、神殿の境内で教えたことは誰かに許可してもらったからではない。どんな人間的な権威にもよらない神の権威によったのです。洗礼者ヨハネの活動も神の声に従った働きでした。彼が「悔い改めよ」と叫んだのは、何かの組織や権威によって承認されたものではない。もし、彼の活動が議会の承認によるのであれば殺されることもなかった。しかし、「悔い改めよ」という叫びは、神が彼に叫ばせたのです。ですから、多くの人は彼の叫びの中に神の声を聞き取ったのです。

 

 私たちの伝道の基盤もここにあります。神が私たちの良心に「このように語れ」とお命じになる時には、恐れることなく語ることです。神の言葉を語ることは、政府や議会の承認によるのでなく、神の促しによるのです。「天路歴程」を書いたジョン・バンヤンは17世紀イギリスで、貧しい鑄掛屋の子として生まれた。オックスフォードやケンブリッジの大学神学部を卒業して国教会の教職となったわけではない。彼は聖書を読み、聖書を本当に自分のものにした。聖書を深く読み抜いていった時、彼は神から福音を語るように促されたのです。町の辻で、家庭で、集会で、福音を語り始めると、当時の英国国教会は彼を捕らえて12年間にわたって投獄してしまった。バンヤンは福音を語ることを、神からの直接的な促しとして受け止めた。その故に、迫害の中でも堂々と神の言葉を語り続けたのです。

 

 福音を語ることは国家や政府の許可によるのではない。あえて言えば教会の決議によるのでもありません。神が促しておられるから語るのです。神が促しておられることを、教会は承認するだけです。教会によって正規に任職されても、神の促しがないなら福音を語る力は出てきません。教会は、福音を語ることを神から促されている人を見い出して教育し、正規に任職して秩序付けるだけなのです。今日の私たちの教会の伝道もそうです。