2015年9月13日礼拝説教 「平和をもたらす道 」

                            2015年9月13日

聖書=ルカ福音書19章41-44節

平和をもたらす道

 

 詩篇137編を読みます。亡国の民、敗戦の民の歌です。イスラエルは一度、神殿が破壊され、国を失った経験を持っています。バビロン捕囚です。紀元前586年、多くの民がバビロンに捕らえ移されました。この詩の作者はその捕囚の民の中にいました。毎日の労働の合間に、川の畔でエルサレムを思って竪琴を弾きながら神を賛美をしていた。すると聞きつけたバビロニアの人々が、酒を飲みながら敗戦国民である彼に何か歌えと求めた。「どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で」と言って、畔にあった柳の木に竪琴をかけて歌わなかった。

 

 私たち日本人も、今もう一度、敗戦の悲しみを噛みしめ直さねばならない。戦争がどんな悲惨をもたらすのか。国の指導者たちの過ちによって戦争した結果、どんなに惨めなことになったかを理解し直さねばならない時に来ています。このことを覚えて今月は詩篇137編を歌いたい。

 

 主イエスは今、オリーブ山からエルサレム市街を見ています。エルサレムの町が一望できるところに立って、主イエスは「その都のために泣いた」。この時、エルサレムの神殿は完成したばかりで光り輝いていた。しかし今日、そこには主なる神ヤハウェの神殿はなく、全く同じ場所にイスラム教の黄金に輝くドームが建っています。なぜ、こうなったのか。この歴史をひもとく書物を紹介します。フラヴィウス・ヨセフスという人の書いた「ユダヤ戦役」です。ヨセフスは、パウロよりももう一世代若い人ですが、ほぼ同時代を生きた人です。この人のおかげでエルサレム神殿がどのようにして崩壊し、ユダヤ人がどのようにしてエルサレムとその地域から追放されたのかが詳細に分かります。

 

 主イエスは泣いて言われた。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。ここに語られている出来事が40年後に実際に起こりました。

 

 ネロ帝の時代、紀元60年代中頃です。ユダヤ全土に反ローマの気運がみなぎりました。大祭司アンナスに呼びかけられて、ユダヤ全土であらゆる種類の武器が作られ、集められて戦いの準備がなされた。サンヘドリン議会も戦争指導者として各地方に司令官を派遣します。その中で、ガリラヤ地方から火の手が上がりました。熱心党のユダ、あるいはギシャラのヨハネという人たちに率いられて反ローマののろしが上がりました。ローマ軍によって鎮圧されます。しかし、反ローマの火の手は鎮まりません。各地で次々に反乱が起こり、次々とローマ軍が鎮圧していきます。

 

 最後に、ガリラヤでの戦闘を指導したギシャラのヨハネがエルサレムに迎えられます。煮え切らない大祭司アンナスが暗殺され、エルサレムは熱心党に支配され、熱心党からさらに先鋭な「シカリウス党」が生まれます。ネロ帝が暗殺され、ネロ帝によって派遣されていた将軍ヴェスパシアヌスがローマ皇帝になり、エルサレム攻略は息子のティトスに引き継がれます。ティトスはローマの4つの軍団と近隣諸国の応援部隊を指揮して、エルサレムを攻略しました。紀元70年8月、エルサレム神殿は火に包まれて崩壊しました。今日、エルサレム神殿の西にあった壁の一部がかろうじて崩されずに残っています。「嘆きの壁」と言われているところです。

 

 主イエスは泣いて言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」と。主イエスは神殿において、神の民イスラエルを見ておられます。今、エルサレムの神殿は繁栄しているように見える。しかし、まもなく破壊と離散の時がやってくる。それは「平和への道をわきまえていないからだ」と言われた。ユダヤの民は戦いのための武器を取った。軍事大国であるローマと戦うために、時間をかけて武器を準備し、勇敢に巨大なローマ帝国と戦った。しかし、理性的に考えるとローマとユダヤでは戦争にならないのです。圧倒的に力の差がある。ところが、エルサレムは神の都だから決して滅びないという誤った神頼みで戦った。戦前の日本が圧倒的な物量を持つアメリカと戦争して、日本には神風が吹くと信じていたのと似ています。剣に頼るのではない。頼るべきは生けるまことの神です。しかし、ユダヤ人は神に信頼する道を捨てて武器を取って戦った。

 

 その結果、主イエスが「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26:52)と言われたようになった。ユダヤとエルサレムは破壊と破滅への道をまっしぐらに歩んでしまった。再び、ユダヤの民は神殿を失い、国を失い、離散への道を進んでしまったのです。「平和への道」、「平和をもたらす道」とは、剣を取ることではない。武器を取って戦うことではない。戦いの道は限りなく戦いをもたらすだけです。武器と戦いをもって平和をもたらすことはできないのです。

 

 主イエスは、神の民が神の訪れの時を知らないで過ごしていると言われた。罪を犯した人のところに、神は「あなたは、どこにいるのか」と訪ねてくださいました。その神の訪問が、ここに来ているのです。しかし、神の民は「神の訪れてくださる時をわきまえなかった」。本来、エルサレムの神殿は救い主・メシアを迎えるための装置なのです。神殿の諸々の犠牲やシステムは、神の民がメシア・キリストを迎えるための準備教育という意味があった。やがて神殿の本体であるお方が訪れて、本当の贖いをしてくださるということを表し、示すのが神殿の犠牲でした。

 

 平和をもたらす道とは、神の訪れを知って、主イエスを主・王として迎えることです。ここに本当の平和があるのです。1つは、神との平和です。2つは、隔ての壁を越えての隣人との平和です。まことの平和とは、剣をもって防備する平和ではなく、神の御子、主イエスを一人一人が主として迎えることです。私たちも主を拒むことのないようにしてまいりたい。