2015年9月6日礼拝説教 「石が叫びだす 」

                               2015年9月6日

聖書=ルカ福音書19章37-40節

石が叫びだす


 賛美歌についてお話しします。賛美歌は礼拝の添え物と考えられたら困ります。賛美歌には不思議な力があります。ルターの宗教改革を力強く押し進めていったのは「神はわがやぐら」(21/377)という賛美歌でした。ある人は宗教改革運動の軍歌だと言いました。軍歌は感心しない表現ですが、確かに宗教改革運動の進展は「神はわがやぐら」と一緒でした。マルチン・ルーサーキングの黒人解放運動は、「We shall overcome」(21/471)の歌と一緒でした。賛美歌は基本的には神に向かって神を賛美する歌です。しかし、多くの賛美歌はメッセージソングです。伝える言葉、メッセージを持っている。曲を伴って人の心の奥底にことばの共鳴を呼び起こします。心の中に語りかけていくことばの力を持つのです。神の言葉に力があるだけでなく、賛美歌にも大きなことばの力があるのです。

 

 主イエスはベトファゲの村からろばの子に乗ってエルサレムの城門に近づかれます。すると弟子たちとその取り巻きの人々は、道に自分たちの衣服を敷いて、その上を主イエスを乗せたろばの子が通るようにした。主のエルサレム入城を熱狂的に迎えたのは群衆ではなく弟子たちの群れでした。ルカの視線は主イエスの弟子たちに注がれています。主イエスの入城を喜ぶ弟子たちの想いが最高潮に達していた。「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と記します。

 

 弟子たちがこのように主イエスを賛美した理由は「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び」と記されている。執筆者ルカはしっかり事柄を見ています。それは彼らがイエスのなさった多くの御業、しるし、奇跡を見ていたからだ、と。今、イエスのエルサレム入城に際して賛美を歌う人たちは、イエスの御業を見た人たちです。ガリラヤからずっと主イエスの旅に従ってきて、道々、なされた主イエスの御業を見て感動し、このお方こそ「主の名によって来られる方、王なのだ」と確信して歌ったのです。

 

 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。短い賛美です。弟子たちは繰り返し歌った。この弟子たちの賛美は、幾つかの大切な意味を持っています。1つは、主イエスのエルサレム入城は、旧約が長い間、預言してきた「主の名によって来られるお方」の入城であることです。神の民イスラエルのまことの王の到来です。これまでにも、イスラエルの王・ユダヤ人の王を自称する者はたくさんいた。しかし、ろばの子に乗るお方こそ、旧約聖書が約束していたまことの王、まことのメシア・キリストなのだと言う賛美です。

 

 2つは、このお方が天上の平和の世界から平和と祝福をもたらすお方であると言うことです。ここには天上だけが平和であって、この地上には平和がない。しかし、この平和のない世界に、天にある平和をもたらすお方だと歌われているのです。

 

 弟子たちは見聞きした主の御業を覚えて、異口同音に賛美している。主イエスの救いを経験し、喜んでいる。この喜びの共通の表現が、この賛美です。自分たちの見ているイエスこそ、まことの王、メシア・キリストなのだと確信をもって喜び、賛美している。弟子たちの賛美は、純粋に神とキリストを賛美する歌ですが、強烈なメッセージソングとなっていました。

 

 この弟子たちの姿と賛美とを苦々しく見ていた人たちがいた。「ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った」。弟子たちを黙らせるようにと求めた。これにも理由があった。1つは、この時代、王とか、メシアとかを自称したり、そう呼ばれたりした人の持つ危険性です。王とか、メシアと公然と称することは、反ローマの運動家、熱心党と見られた。当然、ローマからの弾圧があります。「危険なことを語っている弟子たちを黙らせなさい」という忠告と見ることも出来る。もう1つは、あなたの弟子たちの言っていることは「ひいきの引き倒しだ」と言うことです。神を賛美するように、あなたは賛美されている。「主の名によって来たる方」とは、まさに神からのメシア、神と等しいお方です。イエスよ、あなたは人間ではないか。神と等しい者として持ち上げられていいのか。「弟子たちを黙らせろ」と、ファリサイ派らしい強烈な求めです。

 

 このファリサイ派の人たちの言葉に対して、主イエスは極めて重い言葉で返事を返しています。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。ここでは弟子たちをはっきり擁護している。弟子たちの賛美は決して熱狂主義ではない。間違ったことを言っているのではない。イエスはメシア、キリストである。そのことを、イエスご自身が多くの出来事の中で現してこられた。その御業がキリストの業として賛美されているのです。恵みの御業を見た人たちが今、賛美しているのです。恵みに感謝して賛美することを、主は決してとどめてはならないと言われているのです。それだけではない。主イエスがまことの王であることは確かなこと、啓示の真理です。主イエスは決してこの地上の王ではありません。しかし、主イエスはまことの王の王です。神の国の王であり、神の民であるイスラエルのまことの王として今、おいでになられたのです。この真理を否定してはならない。この真理を弟子たちが語らねば「石が叫びだす」と言われた。

 

 弟子たちが真理について沈黙すれば、代わって石が神の真理を叫ばざるを得ない。イエスが主である。王なるキリストである。この神の真理を沈黙させれば、石が叫び出すということも起こるのです。主イエスの恵みを証しし、イエスが王である真理を布に来るんで閉じ込めてしまってはならないのです。キリストの弟子には大切な務めがあります。真理を語り、真理をもって人の心を揺り動かす務めです。賛美歌の力がここにあるのです。福音の真理を力強く歌い上げていかねばならないのです。