2015年8月30日
聖書=ルカ福音書19章28-36節
主がお入り用なのです
主イエスは苦難が待っているエルサレムに向かって、先に立って進んでおられます。これから起こるすべての出来事は偶然のことはありません。父なる神が定め、主イエスが固い決意をもって受け止めようとしておられるのです。今、エルサレムの手前1.5キロほどのところに来ています。ここで、主は二人の弟子を使いに出して言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と。
この出来事は、イエスが前もって人を遣って工作しておいたと言う人もいる。そうかもしれない。これこそ主イエスが、旧約が預言している王なるメシアであることを示すしるしです。主イエスはこれからの出来事を理解しているだけではなく、支配しているのです。主イエスは、ご自分が何者であるかを「ろばの子に乗る」ことで示そうとしている。旧約預言の実現です。ゼカリヤ書9:9「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。主イエスはエルサレムに入る時、「ろばの子に乗る」ことで、旧約・ゼカリヤ書が預言している「王」であることを示されました。
普通、エルサレムへの巡礼は徒歩でします。しかし、馬に乗って城門を出入りする人がいなかったわけではない。ローマ総督を始めローマの高級将校は軍馬でエルサレムに乗り入れた。エルサレムは、別名「シオンの丘」と呼ばれるように険しい坂道を上りきったところにあったからです。このローマの軍人を真似してユダヤの王と言われていたヘロデや大祭司なども馬に乗って城門をくぐったようです。
主イエスはエルサレム入城にあたり、ろばの子に乗るのです。主イエスは確かに「ユダヤの王」としてエルサレムに入られた。ゼカリヤ書で「見よ、あなたの王が来る」と預言され、主イエスの処刑の時に「ユダヤ人の王」の捨て札が十字架の上に掲げられた。主のエルサレム入りはユダヤ人の王としてのエルサレム入りです。ローマの軍人や王や大祭司は逞しい堂々とした軍馬で乗り入れていた。しかし、主イエスが乗られたのは重い荷物を負う務めのろば、しかも子ろばです。何とも貧弱です。これにより、自分はこの世の王ではない、「平和の君」であることを証しされた。イエスは王としてエルサレムに入られた。しかし、戦いをする王ではなく、平和と救いをもたらす王として入られた。これがろばの子に乗る意味でした。
ろばの子を調達させるために遣わされた二人の弟子の務めは簡単なものでした。子供の使いのようなものでした。「もし、尋ねられたら、このように答えなさい」と返事の言葉まで教えてくれた。弟子たちの側に立って考えると、心配があった。大事なろばを簡単に貸してくれるだろうか、お金を請求されるのではないか。しかし、実際に出かけていくと、主が教えた通りになった。弟子の奉仕は、主イエスが命じられた通りにすればいいのです。弟子たちは見通しが立ってから動くのではない。教会は主のお言葉に従って動くのです。教会設立をしなさい。やがて会堂を建て替えなさい。今すぐに見通しが立つか立たないかではなく、信じて従っていくのです。
不思議なことですが、主のお言葉に従って弟子たちが出かけていくと、その通りになっていく。主イエスが前もって備えていてくださったと言っていい。このようにしなさいと、お命じになる主ご自身が備えして待っておられるのです。最後の晩餐、過越の食事の用意をさせる時も同じです。主イエスご自身が前もって備えておられます。弟子たちは用意されたものを受け取るだけです。私たちも教会の課題について、祈りつつ課題を1つ1つ乗り越えていったら、心配はほとんど乗り越えられていきます。主は、このようにしなさいと命じられます。主の命じられた通りにしていくと、その通りに実現していくのを見ることができるのです。
ここで学ぶ最も大切なことは「主がお入り用です」と言われると、黙ってろばの子を差し出す人がいたことです。主イエスの救い主としてのご生涯は、このような人たちの献げ物が組み込まれているのです。ろばの子は「その持ち主たちが」と記され、持ち主が複数であることが分かる。ものを運ぶ仕事のため、旅ゆく人の利便のため、村人が共同でろばを飼っていた。この持ち主たちがイエスの隠れた弟子であったのではないかと推測する人もいるが、分かりません。この人たちは「主がお入り用なのです」というお言葉を聞いて、「こちらの方が力がありますよ」と言って、親ろばを差し出さなかった。「見栄えのよい馬になさったらどうですか」とも言わなかった。求められるままに、見栄えのしない、力の弱い子ろばを差し出した。ここに、主イエスに対する素朴な信頼と献身が示されている。
私は「ちいろば先生」と呼ばれていた一人の牧師を思い出す。榎本保朗という方です。「ちいろば」とは、小さなろばという意味です。京都で開拓伝道をして教会と保育園を作られた。保育園で子供たちに、主イエスを乗せた子ろばの話をよくした。小さな子ろばは力もなく、見栄えもよくない。でも、子ろばの背にイエス様が乗って下さった。なんと嬉しいことか。自分もイエス様を乗せる小さなろばになりたい、ちいろばになりたい。そう繰り返し語った。貧弱な、なんの取り柄もないような自分でも、イエス様がお乗り下さるならば、これほどの喜び、これほどの生き甲斐はない、と。
主に用いられる道が、ここにあります。神は人間的に立派なもの、力あるものをお用いになるのではない。貧しく弱いものをお用いになられます。主は、見栄えのしない子ろばにお乗りになる。ここに、私たちの献身があります。「主がお入り用です」という言葉を聞いて、まことに人間的に見たら貧しいものですが、私たちの身を主の御用のために捧げてまいりたい。「主がお入り用なのです」。このお言葉に「ハイ」と答える者となりたい。