2015年8月16日礼拝説教 「時代の中で生きる教会 」

                               2015年8月16日

聖書=使徒言行録4章1-22節

時代の中で生きる教会

 

 今、安倍内閣の安保関連法案への反対運動が燃え上がっています。私は、安倍首相の憲法無視、安保関連法案に対して、どうしても賛成することは出来ません。撤回してほしい。しかし国会の多数は自民党ですから、まもなく法案は通過するでしょう。その後、国際紛争から一歩身を引いてきた今までの姿勢から一変して、積極的な紛争処理、戦争の方向へとのめり込んでいく道が開かれます。戦争が出来る国、戦争への道備えが見えてきた時代です。この時代の中で、キリスト教会はどのように歩み、処していくのか、どのような覚悟を持っていくのか。

 

 今日、日本の社会では教会とキリスト者は歯牙にもかけられない存在です。しかし、いざという時、この小さな群れが国家にとってたいへん目障りな存在になる。国が戦争への道を歩み始めた時、戦前の教会は教会と国についての理解をきちんと出来ず、備えすることなく戦争協力への道を歩みました。教団合同をし、礼拝の前に皇居遙拝を行い、君が代を歌い、戦意高揚の賛美歌を歌い、戦闘機献納の献金をし、神社参拝を偶像礼拝ではないとごまかしを教え、神国日本の勝利と大東亜戦争の勝利を祈った。戦後にキリストを信じた人たちは「うそー」と思うかもしれないが、悲しい歴史の事実です。この教会の犯した罪の事実を覆い隠すことなく、きちんと見て、今後の教会の歩みを真剣に考えねばならない時になっています。

 

 この聖書個所には、ユダヤ教当局とキリスト教会との最初の衝突が記されている。微々たる存在であったキリスト者の群れも、めざましい活動によって支配者の神経を逆なでする目障りな存在になってきた。この小さな群れが権力者の前で、どのように身を処し、権力に対峙していったのか。

 

 ペトロは人々の求めに応じ「ソロモンの回廊」で、足の不自由な物乞いの男をイエスの名によって立ち上がらせた出来事について説教した。その説教が「イエスの復活」に言及したため、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々が腹を立て二人を逮捕し牢に入れた。「次の日」、ペトロとヨハネは議会に引き出された。70人議会で、ユダヤ社会の最高権力機関です。居並ぶ議員たちの前で、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問された。本来の逮捕理由は「イエスの復活」の宣べ伝えであったが、「何の権威によって、だれの名によって」に変わってしまった。論点がすり替えられている。権力者にとり理由はどうでも、黙らせてしまえばよい。弾圧はどういう理由でも起こってきます。

 

 この時、使徒たちはどうしたか。この機会を積極的に捉えて、イエスがまことの救い主であることを証しした。一人の男が癒された。罪の奴隷として不自由であった者が罪から解放され自由に生きることが出来るようになった。これこそ「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名による」ことだと語った。救いの唯一性、絶対性の主張です。「救いは得られません」の「救い」には定冠詞が付いている。罪の赦しの救いは十字架と復活のキリストによる以外ないのだと宣言した。これが教会の証しです。教会は、いつでも、どこでも、この福音の証しをするのです。使徒たちを大胆にさせたのは何か。「ペトロは聖霊に満たされて」と記されている。彼らを支えたのは、どんな人間的な力でもなく、ただ聖霊が支え、聖霊が導くままに語った。教会は聖霊の力に寄り頼むのです。教会は聖霊が産み出してくださった神のものです。人間の力や配慮で守るのではない。神が守ってくださいます。

 

 ヨハネ黙示録22章18-19節「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」。黙示録の講解書を出版した時、この言葉はどういう意味なのか、私は真剣に考えた。ドミティアヌス帝の迫害の中でヨハネ黙示録は記された。迫害という状況を考えないと、この言葉の真意は分からない。迫害に直面すると、人は権力を恐れ、身の安全を図り、聖書の真理を時代の要請に適合させようとする。

 

 戦前、多くのキリスト者や牧師たちは警察や検察官から「天皇とキリストと、どちらが偉いか」と詰問された。皆さんは何と応えますか。天皇は人間です。キリストは神です。ところが戦前は天皇も神でした。うやむやにして切り抜けた。聖書では最後の審判が語られている。最後の審判では、全ての人が神の前に立ち、裁かれ、キリストに属さない者は永遠の滅びへと定められます。この最後の審判の場に天皇も立つのかと詰問された。戦前の有力な神学者は「最後の審判は神話です」と言って切り抜けた。黙示録の「加える」「取り除く」とは、これらのことを指している。神の言葉、福音の真理をストレートに語らないことが起こってくる。曖昧にしたり、大切な真理を除いてしまうことが起こる。神に信頼しないで、自分たちの配慮で逃げ延びようとした結果、教会は大きな過ちに陥ったのです。

 

 権力者たちは二人に「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」。福音宣教の禁止命令です。福音は、神が一人の人を愛し、その一人の人を生かしていくものです。いのちを尊び、敵をも愛し、報復を断ち切ることを教えます。平和の福音です。これこそ、この世の権力者にとり根本的に「目障りなこと」です。日本の教会が再び福音宣教の禁止の言葉を聞く時も、そう遠くない。その時、教会はどう処していくのか。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。これが教会の答えです。教会は福音の真理を誠実にきちんと伝えていくこと、証ししていくことです。これが、どのような時代になっても、教会が果たしていくべき使命なのです。