2015年8月9日礼拝説教 「今日、救いがこの家を訪れた 」

                              2015年8月9日

聖書=ルカ福音書19章1-10節

今日、救いがこの家を訪れた

 

 主イエスがザアカイという人に出会った物語です。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」。税金を取る役目の人ですが日本の公務員とは全く違う。ローマ総督は直接に税を取るのでなく、ユダヤ人に税金の取り立てを請負わせる。町の人口はこれくらいだ、税金取り立ての権利を何百万円で売る。この権利を買った人が「徴税人の頭」です。五百万で権利を買った人が税金を五百万で押さえることはない。一千万でも二千万でも法外な金額をふっかけあくどく取り立て、その大部分を自分のものにする。このためユダヤの富をローマに売り渡す売国奴として憎まれ、強盗と同類、遊女等と一緒に罪人と呼ばれ、神殿や会堂の交わりから閉め出された。エリコはユダヤでは有数の富んでいた町です。その町の徴税人の頭です。

 

 ザアカイは「背が低かった」。聖書は人の外観や容貌について記さない。それがわざわざ記す。よほど低かった。ここにザアカイが抱えていた本当の問題が見えてくる。コンプレックス、劣等感を抱えていた。子供の時からチビと言われ、いじめられ馬鹿にされてきた。これに猛反発して生きてきた。金持ちになって見返してやると考えた。徴税人は先祖からの嗣業ではない。お金のため売国奴と言われることを承知でこの仕事を選び取った。けれど徴税人の頭になり、金持ちになっても喜びが見いだせない。ローマの権力を笠に着て暴力的に税金を取り立て、脅せばみんな震え上がる。金でなんでも自由にできるようになった。しかし、人の心を買うことはできない。彼の心の中は木枯らしが吹いていた。わびしさとコンプレックスとを抱え、鬱屈した心理状況です。このザアカイの姿は決して他人ごとでなく、自分の姿であると見ることができるのではないか。

 

 ザアカイは町の通りに出て、イエスが通るのを見ようとした。人垣を分けて前に出ようとした。伸び上がって見ようとした。町の人は彼が右往左往している姿を冷ややかに見て、この時とばかり意地悪した。「群衆に遮られて見ることができなかった」。しかし、この妨害にくじけなかった。むしろ積極的に「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」。何とも珍妙な姿です。イエスに会いたいとの一念から人目をはばからずに非常手段に出た。求道において大切なことは妨害を恐れないこと、かっこが悪いという思いを捨てて一念を貫くことです。この機会を逃したらイエスとの出会いはもう一生ないかもしれない。求道には時があるのです。

 

 「いちじく桑」の木に登ると、まさにその時、主イエスが下にさしかかった。主イエスを真上から見下ろす格好です。主イエスは真上を見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。イエスが自分の名前を知っていただけではない。自分に呼びかけてくれたことに驚いた。今までこんなふうに呼びかけられたことはなかった。人はザアカイの姿を見ると背中を向け、白い目で見、悪口をささやき合う。ますます孤独になり劣等感が増す。裏返した形でいよいよあくどく税金を取り立てる。そういう生き方を繰り返してきた。

 

 「ザアカイ」と自分の名前が呼ばれ、「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」という言葉はかつて一度も聞いたことがない。ずいぶん強引な言い方です。実は、この「泊まりたい」とは依頼の言葉ではない。「あなたの家に泊まらねばならない」という言葉です。「デイ」という語で神の意思が示されている。あなたの家に泊まるのが神の御心だ、神の計画だということです。ザアカイの意志や願いを超えて、神がザアカイを捉えてくださった。彼は直ぐにこの言葉の意味を悟った。身のすくむような感謝を覚えて木からすべりおりてきたのではないでしょうか。

 

 主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われた。町中の人から嫌われ、憎しみと軽蔑の目で見られ、彼は魂と心が病んでいた。お金があっても、権力があっても、病んでいた。孤独で傷ついていた。このザアカイに神が目を留め、神が愛し、神の側から交わりの中に入って来てくださった。彼は「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。主イエスを迎え入れることが信仰です。ザアカイは主イエスを信じ、受け入れた。信仰とは、神の愛と恵みに応答することです。この驚くべき変化を導き出したのは神の圧倒的な選びの恵み、彼に対する愛情溢れる主イエスの取り扱いでした。

 

 主イエスを迎えて、彼の考え方や行動に大きな変化が生まれた。神の恵みに生かされたところで新しい生き方が始まる。ザアカイが主イエスを迎えて夕食の席に着いた時、立ち上がって全く自発的に言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。徴税人の頭として人々から「だまし取っていた」。貧しい人のことなど考えたこともなかった。彼は今、逆に貧しい人たちに施す者となった。「4倍にして返す」とは弁償や補償の最高の規定です。最高の補償を申し出たことは自分の責任を厳しく自覚して過去の不正に対して責任ある態度をとったのです。だまし奪う者から、返還し正しく生きる者、人に仕えて生きる者へ根本的に変えられた。主イエスに出会い、主イエスを迎える時、このように造り変えられるのです。

 

 最後に、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。

 

 この救いの恵みは、彼個人だけでなく、家族全体を包みます。ザアカイの家族は、今までどのように生きてきたでしょう。徴税人の家族です。妻も子供も引きこもり、打ち解けず、世間の目を恐れて生きてきた。それが全て解放されたのです。家族全てが神の祝福の中に導き入れられた。私たちにも、主イエスに出会う「今日」が与えられています。この今という時を大切にしたいものです。今日という日に、主イエスと出会い、主イエスの恵みに応えて生きる歩みを始める決断ができるように祈りましょう。