2015年8月2日
聖書=ルカ福音書18章35-43節
叫び続けよ
私たちの礼拝には「求道者」と言われる方が出席しています。ありがたいこと、すばらしいことです。伝道に励んでいる教会の姿であると思う。「特別伝道集会」と銘打った集会よりも、普段の礼拝の中で「求道」がなされることはすばらしいことです。この聖書個所は、求道がどのようになされていくのかという道筋を示しています。求道中の方は、ここからご自分の求道のあり方を学んでいっていただきたいと願っています。
求道は、自分の抱えている問題を見詰めるところから始まります。「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」。この盲人は自分の今ある状況に満足していなかった。「物乞い」という身過ぎの道について、このままでいいとは考えなかった。物乞いする生活の惨めさ、その原因として「目が見えない」という現実。この人はどんなに恨めしく思い、何とかならないかと考えていた。求道は自分の内に何かの欠け、欠乏、不安、解決を必要とする課題に気付いたところから始まる。精神的・肉体的な病、家庭のごたごた、子育ての問題、人生は多くの課題を抱えています。この課題に真剣に向き合うところから求道が始まる。
求道の「道」は「我は道なり」と言われた主イエスのことです。主イエスを求めることが求道です。抱えている難題に応えてくれる「ナザレのイエス」に出会い、求めねばならない。この人は道端で物乞いしていた。人々があわただしく走っていく。目が見えない人は耳の感覚が鋭敏になる。人々の走り回る動き。何が起こったのか。通りかかった人に「いったい何事ですか」と聞く。その人は親切に答えてくれた。「ナザレのイエスのお通りだ」と。通りがかった人のこの親切な一言がなければ、求道、叫び求めは起こらなかった。この人は突き飛ばすことも出来た。黙って通り抜けることも出来た。この親切な一言は主イエスを紹介する大事な言葉でした。「イエスが、今ここを通られる」と。この盲人にとってはグッドニュースでした。伝道の奉仕がここにある。難しいことを語る必要はない。課題を抱えて悩んでいる人に「イエス様に会うため、教会に行ってみたら…」と話してあげること。信徒にこの自覚が出来てきた時、伝道は進展していく。
この人はとっさに叫び出します。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。ただ「先生」とか「イエス様」ではなかった。「ダビデの子」とはメシア・キリストを指す言葉です。この人はどこかで聞いていた。イエスが多くの病む人を救っていること、盲人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、あらゆる病を癒されたお方であり、さらに死人さえも生き返されたお方であることを。これこそ旧約聖書が指し示してきたキリストの到来の時のしるしであることを、彼はしっかりと受け止めた。このため、メシアを表す「ダビデの子よ」と呼んだのです。
彼は激しく叫んだ。目が見えないから叫ぶ以外なかった。周囲の人たちは「叱りつけて黙らせようとし」た。しかし「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。周囲の声も恐れずキリストに肉薄した。「叫び続けた」、絶叫する姿がここにあります。求道とは教養講座を受けるということとは違う。知的に落ち着いて人生の教養を深めましょうというのとはまったく違う。イエスに助けていただかねば自分の人生は絶望なのだという必死さがある。この必死な叫びが本当の求道の姿です。
「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」。叫び求める者の声を、主イエスは真剣に聞いてくださいます。すべての解決はキリストのもとに来るところにあります。救いはキリストによる以外ない、この簡単なことを見誤ってはならない。ところが、主イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と尋ねられた。何故、主はこんな質問をしたのだろうか。分かりきっているではないかと思う。求めるべきものをはっきり自覚させるためです。求道の目標を明確にさせてくれる言葉です。
この人は主イエスのこのお言葉によって自分が求めていることを改めて見つめ直した。彼は物乞いです。多くの人は「憐れんでください」と言われたら、なにがしかのお金や食べ物を与えてきた。しかし、この人はここで例え、お金が与えられても使えばなくなってしまう。物乞いという境遇に置かれている根本的な原因は「目が見えない」ことにあることを悟った。彼は願います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」と。目が見えたら働くことも出来る、自分の力で食べ物を得ることが出来る。
主イエスはこの人の「見えるようになりたい」という言葉を、言葉の奥底から了解してくださいました。この人が答えた言葉よりももっと深いところから、「見えるようになりたい」と受け止めてくださった。そして、「イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」。彼は肉体の目を開けていただきました。しかし、それだけではない。主イエスを見る心の目、霊的な目をも開けていただいた。「あなたの信仰があなたを救った」とは、そのことです。古代のある聖書注解者は、「見えるようになりたい」と彼が求めたことは、「あなた、つまりキリストを見るために、見えるようになることを求めた」のだと述べている。事柄の本質をつかんだ適切な注解です。この人は肉体の目のことだけを考えていたかもしれない。主イエスはその言葉の奥にイエスの姿を見る目を開けてほしいという願いを読み取ってくださった。それを「あなたの信仰」と見てくださった。
彼は肉体の目を開けていただいただけでなく、霊的な目も開けていただいて、主イエスの真のお姿、神の御子のお姿を見ることが出来、主イエスを信じ、神を賛美して、主イエスに従う者となったのです。今日の私たちも心の目が開けられることを叫び求めなければならない。求道とは知識を習得することではなく、キリストを見ることへの叫び求め、渇望であることが教えられているのです。主イエスは、求めて叫ぶ人の声を聞かれます。「見る」ことを願い求める言葉の中に信仰を見てくださいました。