2015年7月26日
聖書=ルカ福音書18章31-34節
隠されている十字架
優れた作家や思想家、哲学者でも聖書が分からない。聖書を読む人はたくさんいる。しかし、信仰を持つには至らない。それに比べると、本来比べてはいけないのだが、私は無学だという人であってもイエスがキリストであることを素直に信じられる人は聖書が分かった人なのです。どんな学者とも比べることができないほど確かな知識を持っている。どうしてか。
この個所は、主イエスが最後のエルサレム入りをする直前に12人の弟子を集めて言われたことです。12人は主イエスが手元で3年半ほど直接教育してきた人たちです。その人たちに、これから主イエスの身に起こることを予告された。主イエスの身に起こる受難と復活の予告です。
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」。旧約聖書の中で、そんなに多くの個所でメシアの受難と復活が明示されているわけではない。おぼろげです。むしろ、ユダヤ人は旧約聖書を律法の書として読んだ。人が生きていくための戒めの書として読むのです。メシアについてもモーセやダビデのような力をもってイスラエルを解放する栄光のメシアを読み取るのです。
主イエスはまったく違った聖書の読み方を示されました。旧約は受難のメシアによる救いの道が提示されているという読み方です。これこそ主イエスが「聖書はわたしを証しするもの」と言われた読み方です。イザヤ書53章などを土台とする受難と復活のメシアの姿です。罪と救済という視点から旧約を読むと、これこそが基本的なメッセージであることが分かる。旧約聖書の中に受難のメシアの姿を読み取るのが主イエスの読み方であり、キリスト教会はこの主イエスの読み方を受け継いできたのです。
主イエスはご自身に関して4つのことを明示された。1つは「人の子は異邦人に引き渡され」と語られた。神の民と言われてきた人たちがメシアであるイエスを異邦人に引き渡す。つまり、イスラエルに見捨てられると言われた。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」ことが起こる。2つは「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」と言われた。神の独り子であるお方が罵られ、辱められ、唾を吐きかけられる侮辱を受ける。主イエスは神の御子であることを虚しくして、この精神的・肉体的な苦痛を受けようとしておられます。3つは「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」と言われた。ここに主イエスの苦難の頂点がある。囚人を打つ鞭には金属が埋め込まれて肉を裂く。そして殺してしまう。この地上から抹殺する。人の子イエスを殺すことにおいて罪は窮まる。神などいらないという人間の背きの罪が最も明確になる。4つは勝利です。「人の子は三日目に復活する」と言われた。主イエスははっきり三日目の復活を語られた。死に勝利して復活すると明らかに語られた。主イエスは死を越えた復活の勝利を見ておられ、弟子たちに告げておられるのです。
小見出しに「イエス、3度死と復活を予告する」と記しているが、3度ではない。ルカ福音書の中だけでも、主イエスは4回受難の死と復活について語られた。最初にルカ9章22節。ペトロの信仰告白直後です。次ぎに9章44節。さらに13章32-35節。表現の仕方が少しずつ違うが、主はご自分の受難の死と復活について繰り返し弟子たちに語っている。イエスの十字架の受難と復活は決して突然起こった出来事ではない。主は繰り返し弟子たちに語られたというのが、執筆者ルカの記すことです。
ところが、繰り返し明らかに語られていながら、弟子たちには分からなかった。理解できなかった。これもはっきり記されている。「十二人はこれらのことが何も分からなかった」。どういうことか。今日の私たちから見たら不思議なことです。主イエスが繰り返し丁寧に教えられたことが、弟子たちに分からなかった。イエスは別に比喩をもって分かりにくくしているわけではない。語られているとおりのことです。12弟子は人間的に見て、そんなに愚かな人たちではなかった。しかも主イエスのもとで教育を受けてきた人たちですが、「分からなかった」、「理解できなかった」。
弟子たちが分からなかったのは、理由があります。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて」と記されている。「隠されている」とは、埋められている、覆われているという意味です。実際にそこにあるのだが気づかない、ということです。ルカ福音書24章13節からエマオという村に向かって歩いていく二人の弟子たちの姿が描かれています。この人たちは当時の弟子の代表のような存在です。主イエスの復活の後にもなお心を閉ざして復活の出来事を受け入れません。復活が隠されている。しかし、この二人と共に主イエスが歩いて、道々、主ご自身が御言葉の意味を説き明かしてくださいました。やがて二人は、このお方がよみがえられた主であることに気付き、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と気付いた。
聖書の御言葉の意味に気付く、「気付きの時」がある。主イエスが解き明かしてくださる時です。その時に、ああそうかと悟る。やがてペンテコステの出来事を迎え、弟子たちに聖霊が圧倒的な力をもって臨んでくださいました。この聖霊こそ、主イエスの御言葉を理解することのできる力を与えてくださるのです。聖書は頭のよい人が読むと分かるというものではない。聖霊の助けが必要なのです。主イエスがエマオ途上で二人の弟子たちに解き明かしてくださったように、聖霊が助け主として働いて、私たちに御言葉の意味を説き明かしてくださいます。教会は聖霊の臨在される場です。この教会の礼拝と交わりの中で聖書が読まれ、解き明かされていくのです。その時に、「ああ、そうか」と気付きが与えられていくのです。