2015年7月19日礼拝説教 「 だれが救われるのか 」

             2015年7月19日

聖書=ルカ福音書18章24-30節

だれが救われるのか

 

 この箇所の大事なことは「捨てる」ことです。人は捨てきれない自我を持っている。仏教では「煩悩」という言葉がある。貪欲、色欲、物欲、我執など108あるとのこと。これら煩悩から解脱する、煩悩を捨て去ることが悟りだと言われるが煩悩を捨てきれない。これが現実の私たちです。

 

 この煩悩具足の私たちが、どうしたら永遠のいのちという救いを得て、神と隣人に仕えて生きるキリスト教信仰の道を歩むことが出来るのか。「ある議員がイエスに尋ねた」ところから始まります。主イエスは「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われた。この人にとっては期待はずれの答えでした。ですから「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。幼い時から律法を守ってきたという自負がある。しかし、律法を守るだけでは永遠のいのちの確信を持つことが出来ないできた。何とかして永遠のいのちを得たい、どうしたらいいのか。

 

 この切実な求めに対して、主イエスも真剣にお答えになられます。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。…それから、わたしに従いなさい」。この言葉にこの男はつまずきました。「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」。この前半で示されているのは捨てきれない人間の苦しみです。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われ、それに「ハイ」と言うことの出来ない自分がある。

 

 この金持ちの議員の悲しむ姿をご覧になって、主イエスは言われます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。これは主イエスの嘆息、嘆きの声です。「神の国に入る」とは、永遠のいのちを受け継ぐこと、救われることです。神の救いを得ることは本当に難しいことだ、主イエスは言われたのです。財産がある者ほど財産に固執する。そんなにあるんだったら、少しくらいみんなに分けてやったらどうだと思うが、ますます多くを持ちたい。財産に表されている多くの煩悩、物欲、色欲、貪欲を捨てきれない。ほとんど絶望だ、不可能だということです。

 

 主イエスの周囲にいた人たちはこのお言葉を聞いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。この人たちは、主イエスのお言葉の意味をよく理解していた。主イエスが「金持ちは…」と言ったのは、決して実際の金持ちのことではないことを、この人たちは理解した。煩悩に生きる、物欲に生きる私たちは救われがたい。人はみんな何か固執するものを持っている。断ち切ることが出来ないでいる。主イエスは「人間にはできない」と言われます。よく考えると、私たち自分の生活基盤であるようなものを簡単に手放せるものか。出来ない。主イエスに明け渡して、主イエスに従っていけばよいことは分かっていても手放せない。ここに信仰の難しさ、困難さがある。それは人間が本来、罪人だからです。良いことが分かっていても出来ない。罪人が救われるよりは「らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」のです。主イエスのもとに来て、永遠のいのちを求めた金持ちの議員の姿は、捨てきれない煩悩に生きる罪人の姿なのです。

 

  しかし、主イエスは言われます。「神にはできる」と。神は不可能を可能にしてくださるお方です。神の力が働く時に、このことが可能になるのだと言われた。財産、いろいろな意味で自分の持っているものに依存し、寄り頼み、それに固執し、手放すことが出来ないでいる者が、それを手離し、神に寄り頼んで生きる者となることが出来るのだと言われた。自分のために握りしめていたものを、隣人のために献げることが出来る。神のために用いていただく者となることが出来る。救いの道がここにある。神にはできるのだ。永遠のいのちに至る道は、神が開いてくださるのです。

 

 このために主イエスはこの世界においでになられたのです。主イエスと出会い、主イエスのお姿を見つめるところで不可能が可能になっていく。主イエスは本来、神の御子であるお方が神であることを固執せず、人となられたお方です。キリストが、先ず捨ててくださったのです。神としてのあり方を手放し、ご自分を捨てられ、ご自分を無にされたキリストのお姿を見るのです。ご自分を無にされた主イエスと出会い、このお方を見つめ、このお方に結ばれていくところで、私たちも執着しているものから手を離し、神に寄り頼んでいくことが出来るのです。自分はガリラヤ湖の漁師だ、漁の仕方について大工の息子であるナザレのイエスに教わる必要はないと固執していたペトロが打ち砕かれた。「お金」、「お金」と言って徴税人になったザアカイが、主イエスに出会ってそのお金を貧しい人たちに施すようになった。神の恵みの出来事という以外ない。キリストに出会い、キリストに結ばれるところで、この不思議が起る。このお方を見つめるところで、人には出来ないが神にはできる救いの道が開かれていくのです。

 

 その後、キリストに従った弟子たちのことが記されています。キリストの弟子になったことは、自分の力で固執していたものを明け渡したというのではなく、神によって、神の力で明け渡すことが出来るようにされたことなのです。固執する心をキリストが打ち破ってくださったのです。人間の力では自我や固執や煩悩から解放されることは出来ません。しかし、「人間にはできないことも、神にはできる」のです。キリストに出会って、キリストの力を素直に受け入れた人は、暗く閉じ込めている自我や固執から解放されて、神の子とされ永遠のいのちをいただくことが出来るのです。