2015年7月5日礼拝説教 「欠けているものが、まだ1つ」

            2015年7月5日

聖書=ルカ福音書18章18-23節

欠けているものが、まだ1つ


 「ある議員がイエスに尋ねた」。「議員」とは、ユダヤの最高議会の議員のことです。ユダヤはこの時代、ローマ帝国の支配下にありましたが日常生活と宗教に関わることはユダヤ人の議会の自治に委ねられていた。祭司長、律法学者、長老たち70人が集まって決めていた。この70人議会・サンヘドリンの議員であることはたいへんな特権と名誉を持っていた。ユダヤ人社会の中で重い責任を担った国の指導者です。「その人は…大変な金持ちだった」と記されます。マタイ福音書では、この人は「青年」であったと記す。財産豊かで富と権力を持ち、しかもまだ若い人。しかし、ルカはこの人の年齢については沈黙する。ここにルカの1つの見方がある。年齢的には若かったが、すでに老成していた。財産を持ち、若い時から政治と宗教の指導者として歩んできた。若くして老境に達していた。

 

 この人が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。富と権力、名誉を手にしても、彼に不安があった。永遠のいのちの問題です。富と権力を手にしても、永遠のいのち、即ち救いは別のことです。富と権力で救いを手に入れることは出来ない。彼はこのことを知っていた。そこで主イエスのもとに来て尋ねた。ここで注意する言葉がある。「永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。永遠の命は獲得するものではなく、受け継ぐものということが、彼には分かっている。受け継ぐとは与えられることです。彼には永遠のいのちは神から与えられるものだということが分かっている。真剣な求道者です。

 

 ですから、主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか」とお答えになるが、決して論争的ではない。「善い先生」という言葉をたしなめた程度です。真剣な問いに対して、主イエスも真剣に応えています。主イエスは「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われた。十戒の後半部分です。この返事はこの人には期待はずれでした。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言う。主イエスの返事に対する失望の言葉です。同時に自分を満足させる言葉でもあった。幼い時から律法を守ってきた自負がある。神の戒めを心得て、その戒めをきちんと守って生活をしてきた自信がある。だから最高議会で人を裁くような重い務めも担うことが出来た。しかし、永遠のいのちを受け継ぐ、つまり死に打ち勝つ救いの確信を持つことが出来ないできた。永遠のいのちの確信を持ちたい、どうしたらいいのか。

 

 この切実な求めに対して、主イエスもまた真剣にお答えになる。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。この主イエスのお言葉を聞いて、この男はつまずきました。ショックを受けた。けれど、それはこの男だけのことではない。私たちもつまずきを覚えるのではないか。「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである」。彼は結局、非常に悲しみながらも、主イエスの元から去って行ったのです。

 

 問題はここにあります。「あなたに欠けているものがまだ一つある」とは、どういう意味の言葉なのか。聖フランシスコのように一切の財産を捨てることなのか。十戒を守るだけではなお足りない。十戒に上乗せして「一切の財産を捨てて施しをしろ」と命じられたのか。そうだとしたら、これは第11番目の戒めになる。しかし、イエスは決して新しい11番目の戒めを付け加えられたのではない。これは十戒の持つ本当の意味、とりわけ十戒の後半部分が持つ意味の広がりと深さを教えられたのです。

 

 今、私たちは礼拝の中で十戒を朗読しています。その時、「父母を敬え」、大丈夫だ。「殺してはならない」、私は殺人者ではない。「姦淫してはならない」、別に浮気していない、合格だ。「盗んではならない」、盗みなどしたことはない。よし、私は十戒に合格だ。内心でそう思いながら十戒を朗読していないか。もし、そうだとしたら、私たちもこの議員と同じです。

 

 主イエスはマタイ福音書22章39節で、律法の専門家に対して十戒の後半部分を「隣人を自分のように愛しなさい」と要約されました。この十戒要約の言葉を思い出していただくと、主イエスがここで言われたことの意味が分かってくる。十戒は、盗まなければいい、人殺しをしなければいい、姦淫しなければいい、という消極的な戒めでは断じてない。自分を愛するように隣人を愛する、隣人を積極的に活かすことを教える掟なのです。隣人を活かし、隣人に仕え、隣人と共に生きる規定なのです。自分だけが豊かに生きればいい、自分だけがいい目を見たらよいのではない。十戒は自分が生きると共に、隣人を愛し、隣人を共に活かす掟なのです。自分と共に隣人も同じように生きる社会を目差す規定なのです。

 

 主イエスは、あなたは隣人と共に生きようとしているか。あなたは隣人を愛し、隣人に仕え、隣人を活かしているか、と問うているのです。この場合の「隣人」はよきサマリア人の例えを思い起こしていただきたい。ここに隣人がいる。この視点が「なお、一つを欠く」という意味なのです。あなたは十戒の持つ最も基本的な意味を理解していないという指摘です。十戒は単なる個人的な倫理、道徳を教えるだけのものではない。隣人と共に神を愛し、神を礼拝し、隣人に仕えて、隣人と共に生きる社会の形成を目指す社会規定なのです。これが出エジプトして、隣人と共に生きていく新しい契約共同体を形作ることの基本とされた十戒の本当の意味なのです。この生き方をすることが、永遠のいのちに生きることなのです。