2015年6月14日礼拝説教 「子供たちをキリストのもとに」

           2015年6月14日

聖書=ルカ福音書18章15-17節

子供たちをキリストのもとに

 

 教会が子供たちをどのように取り扱うか、どのような姿勢で迎えるかは、教会にとって極めて大切なことです。教会の将来は子供にかかっています。教会の死命を制することと言っていい。日本の教会はこのことが分かっていないのではないかと思う。大人の伝道は考えても、子供のことを真剣には考えない。子供の伝道は教会学校の先生たちが考えればいい。礼拝では静かにしていてほしい、騒ぐと頭が痛くなる。子供を礼拝から排除することも起こった。その結果、今日、教会から子供が姿を消してしまっている。礼拝から姿を消しただけでなく日曜学校からも姿を消してしまった。

 

 10年ほど前にアメリカの教会を訪問した折りに改革派・長老派、福音派の幾つかの教会の礼拝を見てきました。いずれでも親と一緒に子供が嬉しそうに礼拝に出席していた。ヨチヨチと歩き始めた子から青年まで親と一緒に礼拝を守っている。どの教会でも礼拝の中で子供へのメッセージがなされていた。子供が礼拝プログラムの中で何かの奉仕を担っていた。子供は大人の礼拝出席の付属物ではなく、教会の大事な構成員であり、教会の配慮のもとに置かれている。私たちの教会の礼拝でも子供たちをどのように迎えるか、真剣に考えていかねばならないと考えています。

 

 弟子たちは今、主イエスが自分たちに大事な祈りについて教えていると受け止めた。その時に、幼児を連れてきた親たちによって静けさが破られてしまった。連れて来られたのは赤ん坊から幼児、少年に至るまでの子供たち。ワイ、ワイ、ガヤ、ガヤ騒がしい。乳飲み子は泣き出す。これから静かに主の話しを聞くことが出来ると思っていた弟子たちは、カッとなって泣き喚く子を連れてきた親たちを「叱った」、怒鳴った。子供や赤ん坊までもイエスに「触れていただく」必要はないという気持ちもあった。

 

 弟子たちの心のどこかに子供や赤ん坊には神のこと信仰のことなど分らないだろうという思い、知識主義があったのではないか。主イエスは弟子たちの心の中に知らず知らずに生まれている誤った考えを正そうとされたのがこの出来事です。自分がキリストの恵みにあずかったら、他の人も誘うのが当然です。まして親が自分と一緒に子をキリストの元に連れてくるのは自然なことです。自分の子にキリストの恵みをいただきたいと願うのが親の自然な情です。これが本来のあり方です。ところが今日は子供を連れてくることがない。子供をキリストのもとに連れてくることを妨げるものが多くある。習慣とか、無関心とか、遠慮などがそうさせている。

 

 主イエスははっきり言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。これが乳飲み子・子供に対する主イエスの基本的なお考えです。私たちは自分勝手な思いを捨てて、主イエスの御心をしっかり受け入れることです。

 

 第1は、騒ぐから、悪戯するからと言って、キリストのもとに子供がくるのを妨げてはならないのです。なぜでしょう。それは子供にとってもキリストが主であり救い主だからです。乳飲み子という存在がなぜ大切なのか。彼らは力無き者、無力な者の代表者なのです。説教を聞いても分からないからと礼拝から幼児を排除することは、説教がよく分からない人や老人たち、障がいを持つ者などを排除することとなるのです。説教は分かって貰わなければ困るけれども、説教がわからなくっても救いはある。神の祝福はある。神は幼児の唇によって賛美され、無きに等しい者をあえて選ばれる神であることを受け止めることがキリスト教信仰の基本です。

 

 この基本が忘れられ、エリート意識が教会の中に入ってくる時に、教会は崩れて来るのです。「無きに等しい者をあえて選ばれる神」、ここに福音がある。この福音の基本が忘れられるところで教会が変質してくる。ですから、主イエスは多くの人の面前で弟子たちを叱った。弟子たちにとって、この事件は恥ずかしいことでした。しかし、この恥ずかしい出来事を共観福音書の執筆者たちはほぼ同じ文章で書き残している。自分たちの失敗を隠さない。主イエスが公然と自分たちを叱られた。自分たちの失敗を明記して、教会の中にいつでも起こってくる危険性を指摘しているのです。

 

 第2は、「神の国はこのような者たちのものである」ことです。これは幼児即天国入りということではありません。大人が幼児・子供に学べということです。「子供のように神の国を受け入れる人」とは、信頼する人ということです。乳飲み子はお母さんの言うことを素直に信じる。これこそ信頼としての信仰の基本です。信仰は信頼です。神への信頼、神の言葉である聖書への信頼、伝道者の語る言葉への信頼、教会への信頼が失われるならば、信仰は成り立たない。アウグスチヌスは「信なくば、立たず」と言います。信頼がなければ、信仰も教会も成り立たない。素直な信頼があって信仰が成立し、教会が成り立つのです。信頼は神の国に入る条件です。幼児を招く主イエスのお言葉は私たちの信仰にとっての生命線です。

 

 主イエスは集まってきた子供一人一人の上に手を置いて祝福されました。幼児洗礼ではない。ユダヤの幼児は男子であれば誕生して直ぐに割礼を受けている。この出来事は今日の言葉で言えば幼児の祝福と言って良い。礼典としての幼児洗礼とは別に、子供たちへ神の祝福を祈る時を持つことも大きな意味があるのではないかと考えています。幼子への祝福を考えることは、神の祝福の素晴らしさとその大きな広がりを考えることです。キリストの教会を形成する時に、幼子の持つ視座を見失ってはならないのです。主イエスのお姿を心のキャンバスに描いてみて下さい。主の恵みの豊かさが私たちの家庭と教会とを豊かに包んでくれるのではないでしょうか。