2015年6月7日礼拝説教 「神はだれを義とするか」

               2015年6月7日

聖書=ルカ福音書18章9-14節

神はだれを義とするか

 

 この個所では9節を読み飛ばしてはならない。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」。これは福音書記者ルカの編集句です。この例えは、だれを目差して記されたのか。ルカ福音書が記されたのは紀元70年代です。キリスト教会はユダヤ教から独立して異邦人伝道に進んでいます。ルカ福音書は異邦人読者を対象にしている。執筆者ルカの頭の中にあったのは教会の中の人、クリスチャンです。「うぬぼれ」や「人を見下す」ことは、教会の中にも起こるのだ。主イエスは、こう警告しておられたと記しているのです。

 

 主イエスは2つの対照的な祈りの姿を弟子たちに示された。1つはファリサイ派の人の祈りです。この人の祈りは「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」です。

 

 ファリサイ派の人は他の人と自分を見比べている。祈りは人と見比べるものではない。この人は他の人を念頭に置いて自分の生活を見て満足する。他の人々は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者だ。自分はそうではないと意識している。さらに遠くで祈っている徴税人を意識して「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と語る。自分は他の人よりも道徳的に善い生活をしていますと、神の前に胸を張っている。「感謝します」と言っても、それは言葉の上で、実は自己満足の報告の言葉です。

 

  彼がこのように自分の宗教生活に確信を持てた理由は、その具体的な生活の仕方にあった。ファリサイ派は毎週、月曜日と木曜日には断食して祈っていた。聖書には週に2回の断食という掟はない。この人は自分は聖書が命じている以上のことを行っているという自負心があった。「十分の一」の捧げ物の規定も、律法では主要な穀物と産物、小麦とブドウについての規定です。「全収入の十分の一」という規定はない。自分は律法が定める以上のことを行っているとプライドを持っていた。この人の祈りは、自分は律法が定める以上の掟を守った生活をしている。他の人と比べてはるかに善い道徳的な生活をしていますと、神の前に胸を張った自己義認の報告をしている。これは祈りではない。本当の祈りから遠く離れている。

 

 それに対して、主イエスが示されたもう1つの祈りの姿があります。徴税人の祈りで、幾つかの特徴がある。1つは「徴税人は遠くに立って」いた。エルサレム神殿には幾つかの庭があった。祭司だけが入れる庭、次にイスラエルの男子だけが入れる庭、女性たちが入れる庭、その外に異邦人が入る庭と区分けされていた。徴税人は自分は汚れているという自覚があった。一番外の異邦人の庭で祈りを捧げていた。2つは「目を天に上げようともしなかった」。自分の中に誇りうるもの、人と比較して自尊心を持ちうるようなものがなかった。徴税人は周囲の人たちから強盗同然に思われていた。人の無知につけ込んで、ローマの権力をバックにして金をかすめ取っていく者と見られていた。胸を張れるような生き方ではない。3つは「胸を打ちながら」です。彼は自分の抱えている問題を分かっていた。徴税人として生きることは、罪を犯す以外ない生活だ、罪を犯しながら生きる自分の惨めさ、罪にまみれた仕事とそれに支えられた生活。そのような生き方によって支えられる家族の重荷と悩みを自覚せざるを得なかった。

 

 そのため「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る以外なかった。赦しを求める以外なかった。他の人と比較して自分の生活を誇ることは出来ない。律法に照らして善き行いをしている、敬虔な信仰生活をしていると申し立てることは、どんな点からも出来なかった。彼に出来たのは自分の罪を認めて「罪人のわたしを憐れんでください」と言う以外になかった。赦しを乞う祈りです。祈りは本来、赦しを求めるものです。

 

 徴税人の祈りは惨めで憐れで貧相に映ったでしょう。ところが、主イエスは言われます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。主イエスだけが語ることが出来た革命的な恵みの言葉、赦しの宣言です。赦しと憐れみを求める祈りが神に聞き入れられた。祈りは立派な言葉ではない。心から罪を認めて神の前に立つことです。「義とされる」とは、罪が赦されて神と正しい関係に置かれることです。彼は徴税人であることを止めたのではない。道徳的な生活に入ったのではない。彼は元のままの徴税人です。この後も徴税人として生きざるを得なかった。しかし、罪を認めて憐れみを求める人の祈りを、神は聞き入れてくださいます。赦しの恵みがここにあるのです。

 

 それは、この徴税人の祈りの背後にキリストによる罪の償いと執り成しがあるからです。罪を犯し続けなければ生活できない彼のために、キリストが十字架において償いをしてくださった。彼の背後に立って、キリストが贖いの血を流して執り成していてくださる。そのゆえに、彼は義とされて家に帰った。これは、この徴税人だけのことではありません。私たちも罪人、徴税人です。日毎に罪を犯し続けて生きる。罪と縁切りできない。罪を悲しみつつも、罪を犯しながら生きる生活です。その中で、罪を認めて憐れみを求めて祈るのです。その祈りの背後に、キリストがおられてご自身が血を流して執り成しておられること覚えたい。これが祈りの式としての礼拝式なのです。キリストの恵みの中で、罪が赦されていることを確信して、さらに真実の祈りを捧げてまいりましょう。