2015年5月31日礼拝説教 「失望せずに祈れ」

              2015年5月31日

聖書=ルカ福音書18章1-8節

失望せずに祈れ


 聖書のお話をする前に1つの詩を紹介したいと思います。八木重吉という方が書いた詩です。「さて、あかんぼは なぜにあんあんあんあん なくんだろうか。ほんとにうるさいよ。あんあんあんあん、あんあんあんあん。うるさかないよ。うるさかないよ。よんでるんだよ、かみさまをよんでるんだよ。みんなもよびな。あんなにしつっこくよびな」。

 

 赤ん坊が泣いている。お乳を欲しくてお母さんを呼んでいる。このお母さんを求めて呼ぶ赤ん坊の泣き声に、神を呼ぶキリスト者の祈りを重ねているのです。お乳を欲しくてお母さんを呼ぶ赤ん坊の泣き声はいのちのほとばしりです。生命的な叫びです。そんないのちのほとばしりのような祈りをしているか、赤ん坊のように神に叫んでいるかと、問いかけている。祈りは、八木重吉が見抜いているようにキリスト者のいのちの営みです。

 

 主イエスが語られた祈りについての例え話の結論は1節に要約されている。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。「気を落とさずに」は、口語訳は「失望せずに」と訳した。祈りの1つの問題は失望、落胆です。祈っても祈っても応えられないと感じる。祈っても虚しいという感覚です。祈りの生活を始めた人がそこでつまずいてしまう。主イエスは私たちのこの感覚を見ておられるのです。そこで、この例えを語られて失望落胆しないように、絶えず祈り続けるようにと教えられたのです。

 

 裁判官に粘り強く訴え続けるやもめの話です。当時のやもめの社会的な立場はたいへん弱かった。社会的ないじめに遭う、無理難題を持ち込まれる、不公正な取り扱いを受ける。訴えの内容は記されていないが、人から横暴な取り扱いを受けたのでしょう。思い余って裁判に訴えた。ところが当時の裁判官は賄賂によって私腹を肥やすのが常でした。しかも、この裁判官は本人が「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」と言っている筋金入りの悪徳裁判官です。強力な賄賂でも持っていかないと採り上げてもらえない。その代わり賄賂によっては有利な判決をしてくれる。

 

 貧しくて賄賂が払えないやもめの訴えなど採り上げられない。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」。門前払い。しかし、やもめは毎日、裁判官のところに行って懇願した。裁判所に通い詰め、裁判官の行く先々に付きまとった。うるさいようにやって来て、「わたしのために裁判してくれ」と訴えた。その結果「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」となった。彼女の粘り強い訴えが悪徳裁判官を動かして、裁きを勝ち取ったという物語です。

 

 この例え話は、何気なしに読むと大きな誤解をしかねません。この悪徳裁判官と神様をダブらせて、この例え話を読んでしまいかねない。ただ執ように祈ればいい、神を祈り倒すように激しく祈らねばならないと理解すると、大きな間違いです。そのように理解する人も案外多い。「神を祈り倒す」と言う表現をした牧師さんに出会ったことがあります。

 

 この例えから何を学ぶのか。1つは確かに「祈りの熱心、熱心な祈り」です。やもめとは夫を失った女性です。この時代、社会の仕組みが男中心です。ところがやもめは夫に頼ることが出来ない。何の力も持たない。自分の力で人の意地悪や社会的不公正を正していく力がない無力な存在です。ただ訴える以外なかった。これがキリストの弟子の姿だと、主イエスは言われるのです。キリスト者は自分の力で生きていくのではない。自分の能力で幅をきかせてこの世を生きていくのではない。能力や富の力で生きるのではない。キリスト者は神に頼って、神に訴えて生きる。そのただ1つの生きる道が祈りです。赤ちゃんが生まれてきて、生きるただ1つの頼みは母を呼ぶことです。お母さんのお乳以外自分のいのちを支えるものはない。赤ちゃんはそのことを生命的に知って泣きわめいて母を呼ぶ。いのちの限り神を求めて神を呼ぶ。これが求められている祈りの実際です。

 

 第2は、私たちに対する神の愛と真実です。悪徳裁判官の例えは類比の例えではなく、対比の例えです。「まして」という語がある。「まして、愛と真実に富む神は」という対比の例えです。この対比の例えが分からないと、神を祈り倒すと言うような恐ろしいことが起こる。悪徳裁判官とやもめとは元々何の関係もありません。縁戚関係も、賄賂のような武器もない。ひっきりなしに行って訴える以外なかった。しかし、神とキリスト者の間には強い関係がある。キリスト者は神によって特別に「選ばれた人」なのです。キリスト者は神の選民、その選びの背後には愛がある。その愛に基づいて救いに選び出してくださった。祈りの背後には、このような神の愛の関係があるのです。神は必ず確かに祈りに応えてくださいます。

 

 私たちは一時的に熱心に祈っても、願いがすぐに応えられないと疲れ果ててしまう。せっかちです。大事なことは忍耐をもって失望せずに祈り続けることです。神が応えてくださることは確かです。その時まで「疲れ果てない」ことです。祈りが応えられるには神の時がある。神はアブラハムに子孫と土地の約束を与えられた。アブラハムとサラとは祈り続け、待ち続けた。待つことに失敗し続けた。約束の子イサクが与えられたのは約束が与えられてから25年が経っていた。約束の地カナンが与えられたのは、アブラハム死後430年後のことでした。祈りが答えられるには、神の時がある。私たちは、神が祈りに応えてくださるという確信をもって、失望することなく、疲れ果てることなく、忍耐して祈って待ち続けたい。