2015年5月3日礼拝説教 「神の国はどこに」

               2015年5月3日

聖書=ルカ福音書17章20-21節

神の国はどこに

 

 「神の国はいつ来るのか」。この問いは不真面目なものではない。苦難に遭った人は一度は考えたことのある問いではないか。黙示録6章に殉教した人の魂が天の祭壇の下から「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と叫んでいる。「血の復讐」とは義の回復です。これも神の国はいつ来るのかという叫びです。いつまで戦争の恐怖にさらされるのか、いつまで不義が支配するのか、この叫びが「神の国はいつ来るのか」という問いの中に含まれている。

 

 この問いがファリサイ派から出たことを見逃してはならない。ファリサイ派は、まだ神の国は来ていないと考えている。ファリサイ派は神の支配を真剣に考えながら生きた人たちですが、その基本的な考え方が主イエスと大きな違いがあった。ファリサイ派は神の国をこの世の国とだぶって考えた。自分たちは神の民であるが、現実には異民族であるローマ帝国の支配のもとにある。この異民族支配からの解放が「神の国」の到来でした。ローマ帝国の支配はアッシリアやバビロンの支配に比べて理性的、寛容な精神でなされた。しかし、異民族による世俗的な支配であることは事実で、神と律法には無頓着です。ユダヤ人もどんどんローマ化し、ユダヤ人の心が神と律法から離れ、どうしたら豊かになるか、金が儲かるかに関心が行ってしまう。その風潮に抗議して神の支配を求めて生きようとした。

 

 ファリサイ派が待ち望んでいたのは、ユダヤの地を異邦人支配から解放してダビデ王国を再建するという地上の王国を考えた。これが彼らの考える「神の国」です。ですから、主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と言われた。神の国は決して地上にダビデ王国を再建することではない。ダビデの王国も地上の国の1つであって、決して神の国ではないからです。

 

 では、神の国とはどういうものか。主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われた。主イエスは「神の国は、ある」と言われた。もう存在している。これがファリサイ派に対する主の答えです。神の国は将来の問題ではない。もう「あるのだ」と言われた。問題は、どこにあるかです。主イエスは「あなたがたの間に」と言われました。

 

 「あなたがたの間に」とは、何を意味しているのか。昔から有力な1つの理解がある。「神の国はあなたがたの心の中にある」という理解です。神の国は、神を信じ神の言葉に従って生きる人の心の中にあるという理解で、最近は少数派になってきている。私はこの理解は決して捨てられないと考える。神の国とは神の支配で、具体的には神の言葉の支配です。神の御言葉は一人ひとりの心に働きかけて、心を造り変え新しい人を生み出す。神の支配は一人の人が悔い改め、神を信じ従うところに確かにあるのです。御言葉が人の心の中に働くところで、神は大きな働きをなさいます。確かに神の支配はなされているのです。

 

 次に、新共同訳が「あなたがたの間にある」としている理解です。神の国は「あなたがたの間に」、「あなたがたのまっただ中に」、現実に実現しているのだという理解です。洗礼者ヨハネの弟子が「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねた時に、主イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えた。これが神の国のしるしです。神の国は決して抽象的なものではない。それはイエス・キリストの恵みの支配です。主イエスの恵みの支配があるところで、悪魔の業は退けられるのです。

 

 主イエスは恵みの支配をもたらすために十字架を担って死なれ、よみがえられた。キリストに属する者たちすべてを罪と死の滅びの中から贖いだしてくださった恵みの支配です。このような恵みの支配は、信仰によって分かるものです。「神の支配はあなたがたの間にある」。このように言うことも出来る。神の国は教会です。ここに神の国は来ている。人がキリストを信じて洗礼を受けます。罪と滅びの中からキリストの恵みの支配の中に移された。このキリストを信じた者たちが二人、三人、キリストの名によって集まるところに「わたしも共にいる」と、主イエスはお約束くださいました。礼拝こそ、「あなたがたの間に」と言われている神の国が実現しているところです。キリストご自身が共におられて恵みの支配をお示しくださいます。礼拝で聖餐式がなされます。神の国が目に見える時です。主イエスご自身が生きて臨在し、ご支配くださるのです。

 

 ある聖書の学者は、「あなたがたの間に」という言葉は「あなたがたの手が届くところに」あることだと指摘しています。「神の国は、あなたがたが手を伸ばせば、手の届く範囲にある」。青い鳥の童話で、幸いをもたらす青い鳥を求めて、チルチルとミチルはあちこち訪ね回ります。得られずに、元に戻ってみたら、そこに青い鳥がいたというお話です。多くの人は、神の国の理想を描いて、イエスが語ることは神の国ではない。そんなものは偽物だと言って退けてしまう。しかし、神の国はもう来ているのです。主イエスは、人々が手を伸ばせば神の国の祝福を自分のものとすることが出来るようにしてくださいました。十字架において完全な罪の赦しと神との交わりという神の国の祝福を差し出しておられます。神の国はここにあるのです。信仰によって手を差し伸ばせば与えられるものとして、手の届くところにある。主イエスを信じて、神の国に生きる者となりたいものです。

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    匿名 (日曜日, 24 4月 2016 21:57)

    説教を拝見しました。神の国とは手が届くところとのこと。それなら神の国には来世的な側面はないのでしょうか?改革派神学における「神の国」とはどのような理解がなされているのですか?すくなくともウエストミンスター信仰基準では、神の国(というより天国)は、あまり意味をなしていないようですが・・・。