2015年4月26日礼拝説教 「感謝の生活」

             2015年4月26日

聖書=ルカ福音書17章11-19節

 感謝の生活

 

 この個所の主題は「感謝」です。キリスト者は食事の時、感謝の祈りをする。欠いていたら、今日から祈りを捧げて食べるようにしていただきたい。子供は生まれた時から、親によって口移しのようにして神に感謝することを身につけていくのです。「神さま」と呼びかけて「この食べ物、飲み物をお与えくださって、ありがとうございます。イエスさまのお名前によって。アーメン」と短いものです。感謝の祈りを継続して身に付けていく。信仰を子供に受け継がせていくのは容易なことではありません。真剣な祈りが必要ですが、それは食前の感謝の祈りから始まります。

 

 自分が今も生かされていること、この夫、この妻と共に生き、この家族が与えられていること、仕事が与えられていること、1つ1つを日毎に感謝することが大切です。この感謝の祈りが、キリスト者の信仰生活全体を包んでいるのです。改革派教会の教理問答に「ハイデルベルク信仰問答」があります。この教理問答の1つの特色は、キリスト者のすべての生活を「感謝」という言葉で表していることです。キリストを信じて神の子とされ、永遠の命の祝福にあずかった。この救いの恵みのあずかった者のすべての生活は神への感謝としての生涯・生活なのだと理解したのです。

 

 このような神への感謝は、どこから生まれてくるのか。恵みを恵みとして自覚するところからです。神の恵みを深く知り、悟るところで感謝は生まれる。重い皮膚病を患っていた10人の出来事に戻ります。彼らはサマリアとガリラヤとの国境で生活していた。この時代、「重い皮膚病」になった人は惨めでした。家族と地域社会から閉め出され、村境、国境のような人の住まないところで肩を寄せ合って生活した。普段ならユダヤ人、サマリア人と差別し合っていた人たちが一緒に固まって生活していた。人に近寄ることも禁じられ、ものを言う時には遠く離れて話さねばならなかった。

 

 イエス一行に出会った重い皮膚病の人たちは「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げ」た。近寄ることが出来ず遠くから「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。主イエスに期待し信頼して訴えた。すると、主イエスはこの訴えを聞かれ、恵みの言葉を語られた。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と。これはどういうことか。主は病をいやされると、すぐに家に帰しています。ここでは「祭司のところに行け」と命じた。この病が宗教的な汚れと見られていたからです。この病がいやされた時には、祭司により「清い」と判定して貰わねば社会に戻れなかった。主は病をいやされるだけでなく、社会に戻り生活していくことを考えて、祭司に「清い」と判定してもらえと言われた。

 

 重い皮膚病の人たち、半信半疑だったでしょう。しかし、イエスのお言葉です。従いました。祭司のいるエルサレムまで行かねばなりません。相当な距離がある。しかし、彼らは主のお言葉に従いました。信じたのです。そして道の途中でいやしを実感した。崩れ落ち、斑点で覆われていた皮膚が赤子の皮膚のように新しくなっているのを発見した。エルサレムを目指して歩き始めて、どれほどの時間が経ったでしょうか。10人は自分たちを苦しめていた重い皮膚病がいやされたことを悟った。小躍りして、エルサレムの祭司のところに駆け込み、清くされたことを宣言して貰った。

 

 彼らの喜びが推測できる。ところが、ここから違いが生じた。10人共、イエスのお言葉に従った。その結果、10人共にいやされた。しかし9人は、そこでとどまってしまった。9人の信仰は、「いやしをもって満足する信仰」でした。極論すれば御利益信仰です。イエスを病をいやす医者と考えていたのかもしれない。私たちも風邪が治った、ありがたいと思っても、病院にお礼に行くことはない。イエスをその程度に考えていた。

 

 しかし、1人だけ違った。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。自分の体がいやされたことを、神の恵みとして受け止めたのです。この病人は社会的に阻害されていた。同時に神との交わりからも阻害されていた。しかし今、清いと認定されて社会に戻ることは、神との交わりにも回復されることでした。自由に神礼拝が出来ることでした。彼が本当に喜んだのは、この点であった。神との交わりをしようにも神殿にも行けない、会堂にも行けなかった。

 

 ただ1人、「清い」と認定されてから、自分をいやしてくれた主イエスの元に戻ってきた。何よりもすべてに先立ってしなければならないことがあると悟った。それは神をほめたたえて、自分をいやしてくれた主イエスに感謝を申し上げることでした。いやされたこと、清められたこと、神を賛美することが出来ることを知って、エルサレムから大声で神を賛美しながら、主イエスのところまで戻ってき、主の元にひれ伏して感謝した。

 

 主イエスはこの男に言います。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。これこそ本当の救いの宣言です。主イエスは肉体のいやしと、「信仰による救い」を正確に区別しています。「あなたの信仰があなたを救った」とは肉体の健康回復だけのことではない。あなたは神との交わりが回復した。あなたはこれから人生丸ごと、体も魂も清められて神のものとして生きるのだ、と言われた。私たちも主イエスの救いの恵み、贖われた恵み、神の子としていただいた恵みを心から感謝する生き方を明らかにしていきたい。「立ち上がって行きなさい」。力強い派遣と祝福の言葉です。人生の全体、体も魂もすべてが救われて、神の恵みの中で生きるのです。神をほめたたえて、主の恵みに感謝をして生きましょう。