2015年3月29日礼拝説教 「成就された十字架」

        2015年3月29日受難週礼拝

聖書=ヨハネ福音書19章28-37節

成就された十字架

 

 今朝の説教は「成就」という言葉に集中してまいります。「こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。「こうして」は、直前の「わたしは乾く」に懸かっています。「わたしは乾く」というイエスのお言葉は旧約詩編22編16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く」という記述の実現、成就と言うことです。「実現した」は、主イエスの言われた言葉「成し遂げられた」と同じ言葉です。実は「こうして、聖書の言葉が実現した」とは、「わたしは乾く」だけを受けているのではありません。

 

 イエスの十字架の出来事を巡って、ヨハネ福音書は旧約預言、約束の成就として記しているのです。イエスが十字架につけられた時、その下でローマの兵士がイエスの服をくじ引きで分け合ったこと、主が「わたしは乾く」と言われたこと、槍で脇腹が刺されたこと、足の骨が折られなかったことなど1つ1つが旧約と関連づけられている。「聖書の言葉が実現するため」、「…と書いてある」と記す場合もあれば、さらっと記している場合もある。注意して読むと、この所は旧約を意識していると分かる。

 

 旧約の言葉が引用されたり、意識されているのは、なぜか。主イエスの十字架の死が突然のものではなく、神によって計画され、準備され、かねてから知らされていたことです。十字架の出来事は、何百年、数千年以上前から、預言において、詩において、約束という形で細かな部分までも示されていた。主イエスの十字架は決して偶然の出来事ではなく、神の慎重な計画があり、神が長い準備をされていたことであったということです。アダムによって人間が堕落して以来、神はなお罪人を愛し、その救いを決意し計画しておられた。以来、神は着々と旧約の歴史の中で救いを準備され、時至って、キリストの十字架を実現してくださったのです。旧約預言と約束への言及は神の長い準備の過程があったことを示しているのです。

 

 次に、19章30節で「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」と記されています。ヨハネ福音書が伝えるこのお言葉は、主イエスの十字架の出来事の意味を明らかに示すお言葉です。「成し遂げられた」とは「完了した」と言うことです。口語訳では「すべては終わった」と訳した。けれども、単なる終わり、終了だけではなく、新共同訳の訳はたいへん良い訳です。「完成、成就」という意味があります。

 

 何が成就されたのか。ライルという英国の聖書の注解者がいます。ライルは、ここには5つの意味が含まれていると述べます。たいへん大事な指摘です。受難週に記憶すべきことですので簡単に紹介します。

 

 第1は、主イエスご自身の肉体的、精神的な苦しみの一切が終了したことが意味されていることです。主イエスは救い主として走るべき馳せ場を走り終えました。捕らえられ、辱めを受け、罪人の一人とされ、十字架につけられ、痛みと渇き、激しい苦しみを味わわれた。苦難の杯を飲み尽くされた、飲み干されたのです。その意味で「終わった」のです。

 

 第2は、旧約の預言と約束が成就したことです。旧約に啓示されてきた神の救いのご計画、罪人を救う御心が実現した。十字架を巡る出来事が預言されていただけでなく、神の御子であるお方が罪人のために死ぬこと自体が、神のご計画として語られていた。その神の約束が完全に、その通りに実現・成就した。神の御心が貫徹したということです。

 

 第3は、主イエスが救い主・最後のアダムとして神の律法を守ることを完成されたことです。主イエスは人間の代表者として、アダムが守ることに失敗した神の律法を完全に守り抜かれた。主イエスは罪を犯さず、その言葉にも、行いにも、心の思いにおいても罪を犯されず、律法の要求を完全に満たされた。その意味で「完成した」ということが出来ます。

 

 第4は、主イエスは救い主として父なる神から遣わされた贖いの事業を完成されたことです。罪人に代わって、罪のための支払い、償いをなし、神の義を満たしてくださった。これこそ十字架の出来事の中心的な事柄です。主イエスは罪人の身代わりとして罪のために苦しまれ、ご自身の血を流して贖いをされた。主イエスの「贖いの御業が完成、完了」したのです。

 

 第5は、これらの結果ですが、旧約の儀式律法が「終わった」ことです。ルカ福音書には、イエスが息を引き取られた時、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が真ん中から2つに裂けたと記しています。完全ないけにえが捧げられ、もはや動物犠牲は必要なくなった。すべての人は主イエスを通して何の隔ても、媒介もなく神の御前に立つことが出来る。儀式律法の時代としての旧約の時代が「終わった」。まさに神の救済が完了したのです。

 

 主イエスが「成し遂げられた」と言われたお言葉の意味は、これらのどれかと言うよりも、これらのすべてを含んでいます。むしろ、5つに箇条書きのようにして理解するよりも、もっと豊かな、もっと無尽蔵な意味が込められていると言うことが出来るでしょう。宗教改革者カルヴァンは「すべての事柄が、今や事実として完了し、救い主としてなすべき御業で残されたものは何もないと言うことを、主イエスは語られたのである」と言っています。そうです。ここで最も伝えたいことは、主イエスは救い主としてし残したことは何もないということです。救い主としての御業に欠けがないこと、救い主としてのお働きを完成してくださったと言うことです。このゆえに、私たちはこのキリストに信頼し、このお方に一切を委ねることが出来るのです。今、主イエスを信じる者はその血によって贖われ、罪の赦しを受け、神の子とされ、永遠に生きる者とされているのです。