2015年3月22日礼拝説教 「神の言葉に聞け」

              2015年3月22日

 

聖書=ルカ福音書16章27-31節

神の言葉に聞け


 人は「神の言葉」をどこで聞くのか。現在、個人的に聖書を持って、個人的に神の言葉を聞くことができる。すばらしいことですが非常に新しいことです。主イエスの時代、聖書が揃っているのは神殿と会堂でした。主イエスはナザレの会堂に入って「預言者イザヤの巻物」が渡されました。主はそれを読んで巻物を巻き、係りの者に返して説教を始めました。手書きの巻物で会堂に一揃いあっただけで個人が手軽に持ち運びはできません。

 

 キリスト教になっても基本的に変わりません。手書きの写本聖書が一揃い整うのは教会でした。個人的に聖書を持つのは近代のグーテンベルクの印刷術以降のことです。それ以前、神の言葉を聞くことは、ユダヤ教の場合は神殿と会堂で朗読される聖書とその解き明かしを聞くことであり、キリスト教では教会での聖書の朗読とその解き明かしを聞くことでした。神の言葉を聞くとは、聖書の朗読とそれを解き明かす説教とを1つのものとして聞くことでした。聖書だけが神の言葉ではなく、その解き明かしである説教もまた神の言葉なのです。改革派教会の信仰告白の中に第Ⅱスイス信条があります。それには「説教される神の言葉は、神の言葉である」と記しています。説教の持つ重さを受け止めていただきたい。

 

 「金持ちとラザロ」の例え話には主題が2つある。前半は金持ちとラザロの生活、生き方の問題です。主イエスは例え話を前半で終わることも出来た。しかし、さらに語り続けられた。神により頼む信仰を、どうしたら得ることが出来るかを教えたかったからです。永遠に対して備えして生きる道を教えようとされた。今日に生きる私たちに大切な教えです。

 

 金持ちが、信仰の大事なことを本当に分かったのは地獄に落ちてからでした。天国と地獄との間には大きな淵があり越えることは出来ない。この世にいる間が勝負です。この世にある間に信仰を持たねばならない。金持ちは自分の決着は付いてしまったことが分かった。しかし、まだ決着が付いていない兄弟たちがいる。彼らは自分と同じく毎日遊び暮らして、同じ道をたどることは必定だ。兄弟に対する愛は残っていた。彼らに警告して欲しかった。何とかして天国に行って欲しい。これが死んだ人の願いです。彼はアブラハムに言います。現実には地獄から天に呼びかけることはできない。例えです。「父よ、…お願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。…あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。アブラハムは答えます。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。アブラハムの口を通して語られた主イエスの答えです。「モーセと預言者」とは旧約を指しますが、この時代新約はないから聖書全体を指す言葉です。「彼らには聖書がある。聖書に耳を傾ければよい」と。人が永遠に備えして生きる道はある。信仰を得るためには聖書と説教がある。それで十分だと言われた。

 

 すると、金持ちは自分の経験からその難しさが分かる。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と願う。金持ちも「遊び暮らしていた」とは言えユダヤ人です。会堂の礼拝にも参加し、神殿で犠牲を捧げることもあった。繰り返し聖書の言葉を聞き、解き明かしの言葉も聞いてきた。しかし、その聖書の言葉と説教を自分に当てはめて聞こうとはしなかった。そんな生ぬるいことでなく、腰を抜かすような、天地がひっくりかるような方法で警告して欲しいと願った。「死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行って…」。「目にものを見せる」というやり方です。度肝を抜くようなことが起こったら気づくでしょうと言う。時折、クリスチャンでもそういうことを考える方がいます。創価学会などが武道館や後楽園ホールを借り切って大集会をする。同じようにキリスト教も教派を越えて後楽園ホールを借り切って数週間、大集会をしたらどうでしょう、と言われたことがある。そうしたら世間の人もキリスト教に注目するのではないかと。

 

 主イエスは公生涯に入られた時、悪魔の誘惑を受けた。誘惑の1つは、イエスを神殿の屋根の上に立たせて「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」です。神殿には世界中から巡礼に来ている。その人たちの目の前で、神殿の高い屋根の上から傷一つなく飛び降りたら、まさに新しいヒーローの誕生です。華やかなデビューになるではないかという誘惑でした。主イエスはそれを退けられた。人は何とかして目に見えるような成果を出したいと思う。日本のキリスト者の心のどこかにそのような願望が潜んでいる。何とか成果を出したい。しかし、伝道は地道にやる以外ないのです。

 

 主イエスは言います。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。聖書と聖書の解き明かしに心を向けない人は、どんな大きな奇跡を見ても悔い改めることはないと言われた。問題は聴き方なのです。聖書の言葉を自分に対する神の警告、慈愛に満ちた勧めの言葉として聞くことをしなかった。これは金持ちと兄弟たちだけの問題ではありません。今日の私たちの課題です。聖書は読んでいる、聖書の解き明かしの説教も聞いている。しかし、真剣に悔い改め、神の愛と恵みをしっかりと受け止めて信仰を持つ。神の赦しの恵みに泣くということが起こらない場合がある。「神の言葉に聞け」とは、自分に引きつけて、自分に対して語られている神の真剣な語りかけとして聖書を読み、説教を聞いて欲しい。「私に語られている神の言葉」として聞くことが求められているのです。祈りつつ、説教を自分に語られる神の言葉として受け止めることです。