2015年3月15日礼拝説教 「その名はラザロ」

              2015年3月15日

聖書=ルカ福音書16章19-26節

 その名はラザロ

  

 ファリサイ派の人たちは主イエスをあざ笑った。お金や富があることは神の祝福の証拠だというのがファリサイ派の考え方でした。主イエスはこの例え話で「それは違う」と言われた。主イエスは「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言う。ファリサイ派の考え方では、ここに神の祝福が豊かにある人がいると言っていい。「紫の衣や柔らかい麻布を着」ることは最高の贅沢です。「毎日ぜいたくに遊び暮ら」すとは宴会をすることでした。彼は世の成功者、幸福な人生を得た人です。名声もあり、多くの人がこの金持ちの周りに集まってきた。その人たちを招いて毎日、宴会をしていたのです。

 

 次に、金持ちと対照的に描かれているのが貧しい人ラザロです。貧しさも徹底して描かれている。「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」。ホームレスで、体を満足に覆うことも出来ないボロをまとい、金持ちの屋敷からの食べ残しで飢えを満たした。人に見捨てられ関心も持たれなかった。

 

 金持ちとラザロは、この世では対照的な人生を送った。けれども共通項が1つある。「死ぬ」ことです。死は公平です。金持ちは病気になった時、医者にかかり十分な治療を受け、死を数年先延ばし出来たかもしれない。しかし、先延ばし出来ても死を免れることは出来ない。貧しいラザロは医者にかかることもなく死んだ。葬りについては記されていない。金持ちは「死んで葬られた」。盛大な葬儀が行われた。しかし、どんなに盛大な葬儀をしても死の現実は変わりません。二人共に死んだのです。

 

 主イエスは、死んでから逆転が起こったとお語りになった。鮮やかな逆転です。貧しいラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と語られた。天国は宴席、祝宴として描かれています。ルカ福音書15章で天国の喜びが祝宴として描かれている。その祝宴の中で、大きな位置を占めるのはアブラハムです。信仰の父と言われている人です。ラザロはそのアブラハムの傍らに座が与えられた。地上では一度も宴会などに出たことのないラザロが今、天国でアブラハムの隣に座って神の祝宴にあずかっているのだ、と主は言われたのです。

 

 金持ちはどうなったか。彼は陰府にいる。陰府と言われる地獄の情景は例えですが地獄の存在は確かなことです。金持ちは死んで陰府と言われる地獄にいる。どうして、このような逆転が起こったのか。金持ちの問題点は何だったのか。自己中心とおごりでした。主イエスはアブラハムの口を通して言われます。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていた」と。金持ちは地上の生において良いものを貰っていた。富と繁栄です。問題は富をどう用いたかです。実は富は神の委託なのです。神は富をどのように用いるか試しておられるのです。

 

 金持ちは富をどのように用いたか。彼は世の幸福を味わったが、他の人に対しての憐れみも同情もない。最も大切な死後の問題についても何も考えない。現代の多くの人は毎日がお祭りの日のような生活をしている。楽しく飲み、楽しく食べ、珍しいことで満ち溢れている。しかし、永遠のこと、死後に対しての備えなどは心にもかけない。今日の日本人はこの金持ちの生き方と同じ生き方をしているのではないか。

 

 それに対して、ラザロはどうだったのか。何か隠れた奉仕でもしたのか。決してそうではない。彼は貧しかった。主イエスが語るのはそれだけです。しかし、金持ちと比べてただ1つ決定的な違いがある。主によって「ラザロ」と名付けられていることです。主の多くの例え話には不思議に名前がないのです。弟、兄、管理人、父、金持ちという具合です。唯一の例外がこの貧しい人「ラザロ」です。「ラザロ」という名に意味がある。「ラザロ」とは「神は我が助け」という意味です。人の心の奥底を見抜く主が「彼はラザロだ」と名付けた。主イエスによってラザロという名が与えられたことは、彼の人生、彼の生涯が「ラザロ」であった。「神は我が助け」ということを生涯の中で味わって、その信仰と希望に生きた人であったということです。彼には神以外に助け手はいなかった、神だけが彼の助けであり希望であった。神にだけ助けを求めて生きたということです。

 

 ラザロの一生はまことに貧しかった。惨めでした。しかし、彼は神だけを助け手・助け主として信じる信仰と希望に生きた。これだけが彼の資産であった。ラザロの人生は人の目にはまことに惨めであった。しかし、心を見ておられる神のみ前には、彼は輝いていたのです。信仰の父と呼ばれているアブラハムの傍らに迎えられたということは、彼はアブラハムと同じくまことに神だけを頼りとする信仰に生きた人であったということです。

 

 主イエスのこの物語から学ぶべきことは、私たちも「ラザロとして生きる」ことです。富に信頼するのではなく、神にだけ信頼して生きることです。主イエスはルカ福音書6章20節で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われた。貧しいことはたいへんつらい経験ですが、主イエスはそこにまったく新しい意味を加えておられるのです。貧しいとは、神以外に頼りとするものを持たないということです。「神様、助けて下さい。神様、あわれんでください」、「どうぞ、日ごとの糧をお与えください」と祈らねば生活ができない。これが貧しい人なのです。しかし、これこそ人生の幸いなのです。人間的な富に頼るのではなく、「主よ、私をこの日も助けて下さい」と祈り求めて生きていくことです。