2015年3月8日礼拝説教 「神は心をご存知である」

               2015年3月8日

 

聖書=ルカ福音書16章14-18節

神は心をご存知である

 

 「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」。何故、ファリサイ派の人たちがイエスをあざ笑ったのか。不正な管理人の例え話の後で、主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と語った。弟子たちに中途半端はいけない、神にもいい顔し、同時にこの世的にもうまくやっていこうなどと考えるなと語られた。ファリサイ派はこの考えをあざ笑い、拒否した。イエスのような考え方はファリサイ派の信仰理解と大きく違っていた。彼らは神信仰には必ず物質的な繁栄が伴うと考えていた。「富の神学」と言っていい。

 

 「富の神学」と言える理解が出る根拠は旧約律法の中にある。申命記28章「わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、…主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。…町にいても祝福され、野にいても祝福される。…子も土地の実りも、家畜の産むもの、…籠もこね鉢も祝福される」。このような箇所をファリサイ派は利用して神信仰と富をうまい具合に結びつけた。律法を忠実に守ったら祝福され、富に恵まれると受け止めた。信仰には繁栄が伴う。これを逆転させると、繁栄は信仰の結果となる。これを富の神学と申し上げたい。

 

 ファリサイ派は有産・中産階級の人たちでした。そこで律法の言葉を利用して神信仰と富とを結びつける理屈を考えた。自分たちの豊かさ、繁栄は信仰の結果であり神の祝福である。自分たちは神信仰か富かという二者択一的な考え方はしない。イエスの言葉はおかしいとあざ笑った。富をもたらさないような神信仰は信仰ではないとあざ笑った。

 

 主イエスは3つの点から反論された。第1に「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われた。「自分の正しさ」とは富の神学の正しさです。信仰は富と繁栄をもたらすとの考え方です。そのため富んでいることを見せびらかせている。この考え方はユダヤ教ファリサイ派だけでなくキリスト教の中にも入ってきている世俗主義の信仰です。アメリカから「成功の神学」が入って来た。神を信じたら成功すると。信仰は決して虚しいものではない。これは確かなことです。しかし、旧約では幼子に教えるように神の祝福と報いをごく具体的に富と繁栄という形で教えている。これを逆に考えてはいけない。富と繁栄を得るために信仰するということであってはならない。原因と結果を逆転させてはいけない。

 

 主イエスは「神はあなたたちの心をご存じである」と言われた。人は外側しか見ません。しかし、神は心の内側を見ておられるお方です。「人に尊ばれるもの」とはお金や富を指しています。人が執着し、もっと欲しい、もっと欲しいというものを神は忌み嫌われる。神は信じる者に豊かに報いてくださいますが、必ずしもこの地上の富ではありません。神は信仰者の心を見ておられ、その心を見抜かれるお方です。

 

 主イエスは、第2に彼らが寄り頼んでいる律法の問題点、律法の限界を指摘します。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。新しい時代が来ていると言われた。「律法と預言者」とは旧約を意味します。旧約律法は十戒などの道徳律法を除いて時限的なもの、時の限りがあるということです。旧約は幼児の時代と言ってよい。「幼子には幼子のように」と言われます。律法を守ればこのように祝福されるという神の霊的な祝福を、旧約の時代は具体的な富において示されたのです。

 

 しかし、ヨハネの時から、つまり洗礼者ヨハネと主イエスが登場してから新しい時代になったと、主は言われた。「神の国の福音が告げ知らされ」ている新しい福音の時代です。今や、福音を聞いた人たちが天国に突入していると言われた。天国に入るのはファリサイ派のような富により頼む人ではない。福音を聞いて信じる者たちだ。今や、多くの人が天国に入ろうとしている。新共同訳「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」の訳は意味を分からなくさせている。口語訳「人々は皆これに突入している」が理解できる。旧約律法に拘束される時代は終わった。神の国の福音を聞いて信じる新しい時代が来ている。律法を行って神の国に入るのではない。富や資産がある人たちが入るのではない。福音を聞いて信じる者は皆、だれでも入ることが出来る新しい時代が来ている。そしてもう多くの人たちが突入しているのだと言われた。それが次のラザロの例え話です。

 

 第3に、主イエスは律法に忠実であると言い張るファリサイ派の律法理解がいい加減なものであることを明らかにされた。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。…」。ファリサイ派は男性の離婚の自由を大幅に認め、女性からの離婚は認めない。申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とある。「妻に恥ずべきこと」を「不快なことを見いだしたら」と解釈した。これで離婚がOKとなったら、どうしますか。何でも「不快」になる。勝手気ままです。主は、律法の規定を自分の都合に合わせて、自分の欲望に合うように変質させているではないかと、言われた。人間は自分の都合に合わせて律法を理解する。自分の都合に合わせて、都合のよいところは厳格に、都合の悪いところはゆるやかに、自分勝手に解釈する。キリスト者も聖書を自分勝手に、自分の考え方や欲望に合わせて解釈するようなことが、あるかないか、いつも吟味して行かねばならないのです。