2015年2月22日礼拝説教 「模範生の問題」

              2015年2月22日

聖書=ルカ福音書15章25-32節

模範生の問題

 

 主イエスはここで二人の息子の物語をしています。主イエスの強調点は弟息子よりも兄の方にあります。弟の物語はお兄さんの物語の導入部です。二人の息子の性質はたいへん違っていた。弟は才気煥発で能力もあった。父親にせがんで遺産分けをしてもらい、それを金に換えて遠いところに出かけて一旗揚げようとした。ところがお兄さんの方はまったく違った。「ところで、兄の方は畑にいたが」と語られる。弟とは正反対の生活をしてきた。弟が出ていった後もお父さんと一緒にいた。弟が財産を半分にしてしまったため生活も苦しくなった。でも愚痴を言わず、父の仕事を手伝ったと言うよりも、年老いた父に代わり農作業の一切を取り仕切って真面目に勤勉に働いた。お兄さんが「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言う言葉は嘘ではなかった。

 絵に描いたような孝行息子です。「こんなすばらしい息子さんだったら、うちの娘もらってもらえないか」と思うかもしれません。周囲の人たちも、お兄さんはよくできた子だと感心して見ていた。お兄さんは社会の模範生と見られていた。もし、主イエスが律法の教師であったら「見てご覧なさい。このお兄さんのように親孝行して過ごしなさい」と言ったかもしれません。ところがこの物語は模範生のまねをしなさいというのではない。普通だったら、お兄さんは社会の模範生として何事もなく過ごしていたでしょう。しかし、模範生であったお兄さんが実は問題を抱えていた。

 家出していた弟が帰ってきた。お父さんは弟息子を見つけて走り寄って出迎え、抱きかかえて家に入れ、喜んで祝宴を開いた。お兄さんは畑から帰ってきた。一日中、働いてくたくたになっていた。「兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」。静かだった家。ところが家の近くに来ると歌や踊りの声がする。何事が起こったのか。僕を呼んで、何事が起こったのか「見て来い」と言った。僕はお兄さんのところに戻って言います。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と報告した。

 これを聞いたお兄さんはカァッと怒りがこみ上げてきた。何年も押さえてきた怒りが一気に噴き出した。「兄は怒って家に入ろうとはせず、…」と記されている。今度はお兄さんが家に入ろうとしない。お兄さんが家を出てしまっている。お兄さんは父に激しく言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。積年の恨みつらみを全部ぶちまけた。弟に対する妬みと、父に対する恨みが爆発している。

 お兄さんの3つの言葉に注意したい。1つは「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」です。自分は一生懸命仕えてきた。「それなのに」、報われていないという思いです。これは皆さまもいろいろなところで経験するのではないか。妻として、夫として、あるいは教会員として、これだけ奉仕し仕えてきた。しかし「報われていない」という不満がくすぶっている。2つは「わたしは何年もお父さんに仕えています」です。「仕えています」と訳された語はギリシャ語「ドウレウオー」で、直訳すると「奴隷として仕える」です。お兄さんは、この言葉で自分のこれまでの生き方を語っている。忠実な自分の生き方を語った時、「わたしはあなたの奴隷として生きてきた」と言っている。これが彼の自己理解です。あなたに何年もの間、奴隷のように仕えてきたのだと。3つは「あなたのあの息子」という言葉です。自分の弟とは受け止めていない。冷たく突き放した言葉です。「あなたのあの極道息子」。そのために肥えた子牛を屠らせたのです。父に対する恨みの言葉です。弟が帰ってきたことを喜んでいる父親の気持ちはまったく分かっていない。

 お兄さんの抱えていた問題は何か。お父さんの気持ち、思いを何一つ理解していなかったことです。父と一緒に生活し一緒に仕事をしてきた。しかし、お父さんの気持ちが分かっていなかった。父の言葉を奴隷のように聞いて従ってきただけです。父の思いを理解していなかった。父から離れていたのは弟だけでなく、兄も遠く離れていたのです。主イエスは、このお兄さんの姿にファリサイ派、律法学者たちの姿を重ね合わせておられます。ファリサイ派、律法学者たちは、神の掟、律法を忠実に守って生きた人々です。律法の一点一画を欠けなく守る努力をしたが、その律法を与えた神の御心、神の思いについて考えてみようともしなかったのです。

 兄は怒って家に入ろうとしない。ここに起こっているのは逆転です。弟息子は家の中で祝宴の席に着いています。兄は外にいて祝宴に入ろうとしない。神の盛大な宴会の席に着くことが救いにあずかることですが、兄は祝宴の外に立っている。罪人の代表である弟が悔い改めて神の祝宴にあずかり、長年、神に仕えてきたイスラエルの民が祝宴の外に立つ。父が出てきて「なだめ」ます。「なだめる」と訳された言葉は「パラカレオー」です。「傍らで慰め、励まし、かき口説く」と訳せる。兄をなだめ続ける父の姿に、独り子を遣わされた神の恵みが示されている。何と言ってなだめているのか。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。これこそ福音です。ここには、どんな報いがあるかなどというけちくさいことではない。一緒にいることを喜ぶ神の姿がある。神が一緒にいて「全部お前のものだ」と言われた。兄はこのような父の愛を受け続け、それに養われてきたのです。そのすばらしさを知ってほしいのです。